日本ごうがふかいな協会広報

日本ごうがふかいな協会の広報ブログです。

生きる糧も死ぬ宛ても失った概念はやがて汚染されたミームと共に別の概念へ転生されていく

 どうもかーびぃです。

 

 (※この記事は比較的わかりやすい文体にチューンされています。物足りないかーびぃジャンキーはがまんしてね)

 新作を書きたいと思い、新たな「ごうがふかいな」は一体どこにあるのかとあたりを巡らせるとどうしても自分が一回書いた得意分野でもういちど勝負をしたくなってしまうわけで。

 そんな感じで、さえないおっさんやおばちゃんになってしまった男女が、昔はバンドマン目指して頑張ってたり、ドキドキメンヘラ女子大生になって爛れた性生活を送っていたりはちゃめちゃだったんですよ、みたいな感じの小説を書こうと奮闘している。とはいえかーびぃ氏自身はさしてはちゃめちゃではない学生生活(どちらかといえばどんよりわくわく時々地雷、みたいな感じだ)だったので、こう、はちゃめちゃな学生生活を妄想しながら、それでもなんとか前に進んでいくみたいな話を書いていくつもりである。

 

 さてさて、そんなことはどうでもよくて、テキレボ5シーズンの期日が来てしまった。文フリ金沢との関係で、大変残念だがDNR(読了ならず)処理をしていしまったものもいくつかある。でもこれは後で読む。後で読むのだ。

 というわけで、ここまでで読んだものは7冊。

 うち選外の4冊について、ここで軽く感想を述べておきたい。

 

「ZURE イリエの情景~被災地さんぽめぐり~/鬼系事雑記」

著:今田ずんばあらず/小宇治衒吾 (TUDURI)

 隣のブースで巨大なタワーを建設していた、今田氏を中心とするサークルの文庫本。この本は、最初の9割を今田氏の被災地巡り小説と、残りの1割を小宇治氏の薄暗いファンタジーで構成されている。個人的には小宇治氏のファンタジーがなかなかに薄気味悪い感じで好きだったが、必然的に今田氏の被災地巡り小説に字数を割かざるを得ない。

 この小説は、依利江(いりえ)と三ツ葉(みつば)という架空の女子大生二人組が、東北の被災地を旅するという形で、(おそらくは)今田氏の体験や旅行記を元に再編集されたものである。それだけに、旅行当時の情景や人々の会話、そして主人公である彼女たちの言葉を借りて描き出される、被災地のみならず日本中に落とされた東日本大震災という影の存在が物語中でも多くのウェイトを占める。その空気が時空を超えて、まさに津波のようにこちらの都合を考えることなく押し寄せてくる。それはさしずめ、取材当時の空気をめいっぱい閉じ込めた缶詰のようだ。

 その缶詰がさび付いていてなかなかあかなくなっているのか、今にも開きそうなほど真新しいのかは、読む人次第だろうと思う。

 

「イヌガワラの缶詰」著:あおせか(あおせか)

 テキレボの打ち上げで同席だった青那流(あおな りゅう)氏が代表を務めるサークル「あおせか」のおそらく初めてではないかという合同誌。表紙のかわいらしさが目を引く。「犬」「缶詰」「河原」という三題噺で、字数を5000字に制限するという、なかなかチャレンジャブルな合同誌だったが、それぞれの色が如実に表現されており、はらはらしたが意外と飽きなかった。

 ひねくれものが多いのか、いったん読んで「あれ、このお題どこにあった??」って思うようなものもあれば、ワードをかなり話の中心に据えているようなものもあって、合同誌の良さはこういうところにあるんだよなあ、などと思った。

 フォントと行間は全部合わせたほうが読みやすいと思います。

 

「ニューロマンチック教唆の断罪」著:酒井衣芙紀(無芸)

 同じくテキレボの打ち上げで同席だった酒井氏による詩集。実は酒井氏のブースには無配物でピンときたのでお邪魔していたのだが、こちらは打ち上げでいただいたもの。本人曰く「多くの人に取ってもらえそうな詩集」にしたとのことだが、読んでみてだいぶ攻めているなあ、これをテキレボの新刊に持ってくるとは攻めているなあ、と感じるすごい出来だった。ぼくはテキストの羅列でしか文章を表現できないが、この詩集はフォントやレイアウトを駆使してアクティブに視覚に訴えてくる強さがある。そしてワード配置の癖がやはりどストライクだった。ここまでどストライクの作家がそうそう出てくるものではないとは思う。作者の詩に対するひたむきな想いと、詩集を製作する上での高度な技術力を感じる、素朴な装丁の詩集であった。とくに表題作は多くの人にこの紙面の状態で読んでいただきたいところだ。

 

「潮伽 縮む里」著:壬生キヨム(cieliste)

 文字通り、概念が圧縮されたような不思議な短編集(あるいは、連作短編)。正直ついていくのがやっとのレベルで圧縮されている。お餅ってレベルじゃなくて、いうなれば防災食だ。序盤の短歌の羅列とすさまじく読みにくい語りが印象的で、狂気じみたものすら感じる。だが最後まで読み終わった感覚は悪くなかった。物語は「世界が縮んでいく」という設定を軸としてひたすら辺縁を描いていくのだが、肝心な部分がそれこそ「縮んで」しまっている。高い読解力が必要だろう。ぼくはぎりぎり読めなかった。

 この文章を書けること、そのものが才能だろうと思う。

 

 以上4冊についての感想であった。

 ちなみに、この4冊のうち2冊は60点台である。つまり、60点を超えた本が5冊もあるということだ。文フリ京都よりもすごくないか、それ。

 

 以降は今シーズン上位3冊についてひとつずつ書いていく。

懐に隠すべきは爪でも脇差でもなく一発の銃弾とそれを素手で打ち込む技術だけだ

 どうもかーびぃです。

 

 テキレボ、第5回に参加してきました。ここまでたどり着くのにかなりの道を歩いてきた気がする。第2回に一度「そりゃたいへんだ。」で参加している身ながら、しかし、個人的にはついに、といった思いが強い。この場に軽率に入り込むことが果たしてぼくにできるだろうか、できただろうか。そして、第5回にして新参者のぼくを、この界隈はどのように迎えるのだろうか、そこがとても気になった。

 というあくまで自意識上の話は隅に置いておくとして。

 

 イベントには朝、設営から参加した。浅草線が遅れたこともあり最初のミーティングに参加できなかった上軍手などのまともな装備もなかったので正直微妙に使えない感じになっててなんか申し訳なかった。職業柄こういうことは結構やっているつもりだったのでもう少し真面目に準備しておけばもっと役に立てたなあと素直に反省している。

 設営が終わって、自ブースの設営もひと段落して、両隣のブースの主を観察したりケント紙にかーびぃ氏の絵をかいて「まんまる書房」とか手書きでやっている間にイベントは始まっていた。

 とにかく、文学フリマとは明らかに違う文化を感じたのはここからだった。開始1時間くらいでひょこひょこブースを閉めて遊びにいく人が続出し始めるところまでは文フリと同じだったのだが、何をするのかと思いきや、無料配布の品物をつぎつぎと貰っていく玄人の皆さんがぞろぞろと行脚を始めていて、なるほど、この文化がいわゆる「テキレボンドリーム」とも呼ばれうる不可思議な頒布実績につながってくるのか、と膝を打った。

 ぼくは無料配布反対派であり、いわゆる原理主義過激派だった。それは、作成者の労働対価が作成物に反映されていない生成物など、作成者の知的ダンピング行為にほかならず、界隈全体のデフレ経済を誘発するため断じて許されるべきものではないと考えていたからである。

 だが、冷静に考えればこの玄人のみなさんの取った行動、および無料配布を「推奨」するともとれる準備会の動きは非常に理にかなっており、そのうえ商業的であり経済観念上でも理屈のつけられるものでもあったのだ。

 無料配布物は、いわば広告費として作成者が作成物の作成およびそこに要した労働対価を間接的に「場」に支払うことで、需要と供給の場そのものを円滑に動かすものとして用意されるものであった。第1回を除けば、前回までぼく自身はこの会場に足を運んでいなかったわけだからそれまではわからないが、第5回に関してのみ言えば、この無料配布物の作成により多くの需要を呼び込むことが出来ていた。それは名刺の役割を果たしている。これが文学フリマには今のところ存在せず、今後も形成されないか、もしくは形成されるまでに相当の時間を要するかのいずれかである、すなわち現時点ではテキレボ固有(あるいは、テキレボで最大といえるであろう)の文化であり、独自の流通形式である。

 ということで、テキレボはとても商業的な世界観をもつ即売会であるという、ぼく自身が第1回で思い描いたことをそのまま進歩させていったような、発展的でありかつ先進的な即売会と言えるのではないだろうかと思う。

 だからこそ、両隣がどちらかといえば文化的な側面を持ち合わせているサークルであったことにぼくは言いようのない安堵をおぼえた。主流派とは明らかに流れを異にしているサークルがそれなりの数確保されているというのは全体の居心地に大きな影響を与えているように思う。そして、それがある程度(おそらくは、運営の計らいなのであろうが)近所に集約されているというのが非常に配慮されているなあと感じた。大規模になってしまうとできなくなってしまうことである。ここが非常によかったし、次も参加しようと思える部分でもあった。

 作られている頒布物のレベルも格段に上がってきていると感じた。もはや、ぼくは批評することが主になってきていて、自分の創作を広げていくという行為がおざなりになりつつあるわけだが、文フリ京都といい、このテキレボ5といい、強烈な重量を込めて打ち出されたワードや鍛え抜かれたセンテンス、それらを編みつくしたパラグラフの塊に圧倒され続けているし、なにより装丁にも力を入れているところが多いのがなんというか、すごいなって(語彙力)。

 最近気づいたのだがぼくはそもそも、描出という行為そのものがとても苦手である。おそらく抱えている障害に起因しているのかどうかはわからないが、読み込みはできるが書き出しが極端に弱い。だからすべて言語で処理するし文章しかまともに書けないのである。その文章だって手書きではろくな形にならない。だから絵を描けることそのものをすごく尊敬するし、そういった人の力を借りたいと思っている。なかなか難しいのだけれど。

 ちなみに、頒布実績は、結局両隣のサークルの方に新刊をお渡しできたのとタンペンツメホウダイとしていくつか配ったのと、それっきりになってしまった。長文で語りかけていくスタイルなので無料配布ものを出すのはかなりの労力を必要とする気がするが、次はなにかの企画に参加してみたいと思う。読んだ中で、ひとりでもぼくの小説を気に入りそうな人が、ぼくとその周りのブースを訪れることで何かが変わるかもしれないからだ。そういう可能性に目を向けたいと思うくらいには、ぼくはこの即売会とそのあとの打ち上げによって精神が若返った。

 

 そうそう、打ち上げについて述べるならば、ぼくはとても引き運がよかったといえる。絶妙なタイミングで話せたいひとと話せた、これで今年の引き運はすべて使い切ってしまったようなものだ。明日からめっちゃ激務だし。

 軽率に打ち上げ行ってなんか軽率にいろんな人と話して朝までは後悔していたのだけれど、結局はそれでよかったと思い始めた。ぼくの正体は軽率なのだからどこまでも軽率でいいのだ。そこで突っ走って死ぬまで、もしくは越えられない壁に突き当たるまで進めばいいのだろうと思う。そしてそうしたくなくてもそうしなければならないくらいにほかの道は残されていないのだ。

 まあなんでもよかったんですけど、とりあえずありがとうございましたと。そしてまたよろしくお願いしますと。そういう感じです。

 

 というか軽率に黒髪ロング一重まぶた微乳お嬢様系女子と知り合わねえかな~いい加減。

高値の花を撃ち落とすために狙撃銃をそろえているわけじゃない

 どうもかーびぃです。

 

 批評を終えてからというもの気が抜けてしまいまともに活字を読んでいない。インターネッツのやわらかなふにゃふにゃ文章に触れていると活字を噛めなくなるぞ、って小さい頃親に言われたような気がする。知るか。

 

 昔から文章を書くのが好きだし、意味もなく誇張するのが好きな人間でそれでよく怒られていた。小学生時代の絵日記なんか嘘ばっかりだ。しかも「今日は宝くじで3億円が当たったので回転ずしでウニを食べまくりました」みたいな誰にでもわかるような荒唐無稽なやつではない。よく読むとどこかしらが嘘であることはなんとなくわかるのだが果たしてどこが嘘なのかは本人じゃないとわからない、もしかしたらこれ全部嘘なのかもしれない、といったように読み手を疑心暗鬼にさせるような嘘が得意だった。

 むしろ、逆に正直にすべてぼくの思ったことをありのまま述べるということが全くできない人間であるともいえる。まあ人間じゃなくてわしかーびぃなんですけど。とまあこういった具合である。これで何が困るか。実のところ社会生活で困るところはそんなにない。というかほぼない。なぜなら人間というのは大なり小なり嘘を上手に使って社会生活を送ることを求められているからである。ただ一つだけ困るのが、もう皆さんお分かりかもしれないが恋愛的な場面である。こういう人間、もとい球体の生物だと何を語っても真実味が薄い。したがって自分ではまあそれなりに、例えば「スケベしようやあ~~」みたいな感じで伝えられたと思ってはいても、相手にはそれが全く伝わっておらず、「今夜は月が綺麗ですね」程度にしか思われていないという逆夏目漱石現象が発生しまくっている。もう島倉千代子なのだ。今気が付いたんだけど島倉千代子がなくなってからもうだいぶ経つわけで、ナウなヤングの皆さんは島倉千代子大先生を知らない可能性があるんだよなあ。悲しくて悲しくてやりきれないですねえ。なにがフォーククルセイダーズだ。とにかくアレなのだ、ぼくが何を語ろうとも黒髪ロング一重まぶた微乳お嬢様系女子は真剣に聞いてくれないのだ。一文字めづるちゃんは聞いてくれるのにね。しんけんだけに。

 最近ついのたーでよく見るような話に、おそらく発言者は「発達障害の子供に日本の教育って合ってないよね」みたいな趣旨にしたいであろうツイートで、「発達障害と思われる子供に対して担任の教師が独自の努力をした結果みるみるうちに当該児童の成績や素行がよくなった」という旨の話をしているのだけれど、なんかこう、この手の話のもやもや感って、「じゃあお前その子供にそれだけ独自の(公平性を損なうか損なわないか議論になる程度の)努力で分かってもらうようにしたところで何も変化がなかったらどうすんだよ」ってすーぐ思ってしまうというか、本当にこの手の話に多い「非定型は何かしらの特殊な能力を持っているに違いないからそこを生かすべき!」みたいなことを何の疑問も持たずに抱きに抱いてしまい脳髄の軸に引っ付いて取れなくなってしまっている錆びた思想の持ち主が日本にごまーーーーーんといるのだろうなということを考えてしまいぞっとするわけである。

 それって裏を返せば「使えない奴は死ね」っていう優生学的なやつじゃないですか、文明的な意味でも人間の存続という意味でも非常によろしくない考え方じゃなかろうかとぼくは非定型の立場で思っているわけなのだが。確かにぼくも昔は少なからずそう思っているというか、今でもそう思ってるなーっていう気分になることはありますけど、優生学的思想って人を滅ぼすやつですよね。これを早急に改めないと人間死んじゃう。まあわしかーびぃだし関係ないか!ちなみにかーびぃ氏は日教組的な組織に対し並々ならぬ私怨をもっていたりするがそんなことはこの記事に関係ないのである。ないったらない。だめだだめだいかんぞそんなことを考えては。

 

 テキレボ、いい感じで準備が進んでいます。短編詰め放題が好評かどうかわからないので、とりあえず種類を増やしたら数を持っていけなくなってしまったのでその辺を考えた結果若干でいいかってなってます。なのでもし予想外に大盛況だとお目当ての短編がなくなるかもしれないですよと。まあそうはいっても大半の文章はぼくのページのどこかにおいてあるんですけどね。

 

 月収2億くらいほしい。そして税免除とかになりたい。

高圧下で発生する化け物はたいてい人知を超えている

 どうもかーびぃです。

 非常に眠いし精神の調子がよろしくない。今朝なんか起きるのに1時間近くかかって会社に遅れかけた。原稿やるはずだった未来はどこへ。

 

 とかなんとか言ってないで、文フリ京都シーズン最後の批評を始めようと思う。

 

 ミスチルことMr.Childrenのアルバム「深海」に収録されている最初の曲といえば「Dive」そして「シーラカンス」である。激しく打ち付けるようなロックでありながらスローテンポであるこの曲は歌詞もかなりハードで、闇のアルバムとファンの間でささやかれている「深海」のメインボーンをなしているといっても過言ではないと思う。このアルバムはアタッカでつなぐタイプの曲が多く、気が付くと全体が聴き終わっているような、非常に一体感のあるアルバムである。

 

「無何有の淵より」著:ヨモツヘグイニナ(ヨモツヘグイニナ)

(評点 通読性:13、宇宙感:20、残響度:20、嗜好:7、闇度:A 合計67点)

 自分でもびっくりするくらい直球のマクラを配置しているわけであるが、この本を読んだとき、ぼくはまさにこのアルバムを思い浮かべた。各短編はそれぞれ濃密な個性と引きずるような闇を浮かび上がらせている。息をしようものならからだのあらゆる穴から海水が逆流してしまいそうな息苦しさを感じられるくらいに、全ての短編および歌集がストロングだった。

 ちなみに、サークル名の「ヨモツヘグイニナ」は深海に棲む貝類の一種で、熱水噴出域という高温の水が噴き出す場所に生息して、無機物の化学合成を行うバクテリアの力を借りて生息している。すなわち、生物の捕食等を行わない。だから黄泉戸喫なのである。古代日本神話に由来する、深海生物の名を冠するサークルにはぼく自身聞き覚えがあった。ひょんなことから出会ったフォロワーがその名をつぶやいていたのと、かなり前からサークルカタログ上にオススメとして出されていたことに後で気が付いた。隣のサークル名を見た時にどきりとしたのは秘密である。

 さて、話を戻すと、どの短編も圧倒的な群青色を漂わせ、それぞれに非現実という名の深海を見せてくれた。この本のコンセプトは「深海×神話合同誌」ということであるが、まさに全体を覆う神々しさと禍々しさが混然一体となった非人間性、ないしは非文明性に圧倒される。出そろった7名のライターはいずれも粒ぞろいで、同人界隈でもかなり高水準の創作力を持っているのではないかと推察される。ひとつひとつにいろいろ書いてしまうとぼくのぼろが出てしまうので書かないが(書かないのかよ)、特に最初を飾った彩村菊乃さんの「零本・人魚語水漬白玉」の隙のいっさいない語り口には呆然とするほかなく、また、磯村愛さんの「マリーへの手記、或いは沈める寺の一考察」も高度な教養を用いたプレイングで圧倒してくる。この巻頭2作品が合同誌全体の密度と方向性をはっきりと示唆するものとなっており、続くエヌさんの「乙姫の腹」、そしてこのサークルの主宰である狐伏澤つたゐさんの「華胥ノアナタ」はかなり標準的な線を持つ幻想小説で非常に強固な骨格を与えている。個人的にはこの2つの線がぼくは好きである。かーびぃ氏頭が悪いので難しいことはわからないんぢゃ。

 最後を締めくくる佐々木海月さんの「生命未満」は、この合同誌唯一のSFだが、その静謐さと透明さは高濃度ばかりが目に付くこの合同誌の中で異質に光る。ただただ、美しい。この小説が最後にくるのは非常にその通りというか、そうせざるを得ない。まさにミスチルの「深海」の「深海」に相当するものと言える。文章も非常にこまやかで丁寧に、それでいて高度さを必要としない素朴な言葉で綴られており、ぜひとも多くのSF好きに読んでいただきたい代物である。

 評点としては、収録されている短編があまりにも高度な教養と知識と読解力を必要とするものばかりであるため通読性が非常に低くなっている(ここまで評価したもののうちで最低)。逆に言えば、読む人を非常に選ぶ、同人誌らしい同人誌ともいえるだろう。

 こういうものを作ってみたいと最近とみに思う。

 

 以上、文フリ京都シーズンの批評でした。いくつかはテキレボ5でも出すとのことなので、覗いてみてはいかがでしょうか。そしてあわよくばわしのブースもきてくり~~D-05ですぞ~~

墓標に建てられるものは無機物と決まっているわけではないが、無機物にせざるを得ないことはわりかしある

 どうもかーびぃです。ぼくもたまにはガンガンいこうぜで戦うこともある。

 

 ということで、第2位について、書いていこうと思う。

 好きなバンドだから何度も取り上げてしまって恐縮なのだが、9mm Parabellum Bulletに「黒い森の旅人」という曲がある。個人的には9ミリの中でも名曲中の名曲で、普段の曲とは別ベクトルで幻想的な雰囲気を醸し出している不思議な曲なのだが、それは歌詞によるところと9ミリ特有の強く長い泣きメロがなく構成がシンプルなのも影響していると思う。

 

「ハカモリ」著:七歩(酔庫堂)

(評点 通読性:17、宇宙感:17、残響度:19、嗜好:7、闇度:B 合計65点)

 たまたまブースが隣になった方の新刊がこちらである。短編にほど近い分量の中編が文庫本に収められている。ブースには本だけでなく硝子のアクセサリーのようなものやこの本のようながっつりとしたファンタジー以外にもライトファンタジーやツイノベなども手掛けられているようで、創作物の幅がかなり手広いながらも、ひとつひとつに強いこだわりを感じられるところが美しいと思った。ぼくがマクラの曲を選んだのはそういった部分からである。

 小説はハイファンタジー気味の世界観で語られる少女とその祖母、そしてシディーと呼ばれるいわゆる亜人種の少女との物語である。ある日、「墓森」で少女ステラはシディーの少女と出会う。ステラは彼女を祖母マーラと暮らしている家に連れ帰る。マーラはシディーを見て驚嘆し、思わず「レイミー」と口走る。この序盤のストーリー展開の背景描写が非常に精彩で、「墓森」の匂い立つような腐葉土の香りや、鬱蒼とした異世界感、そしてそれに伴う幻想小説としての臨場感を際立たせることに成功しているといえる。この人のすごさは、情景描写と心理描写をシームレスにつなぎ合わせ、読み手にストレスにも似た心理的負荷をかけることなく自然に場面を展開し、かつ、登場人物の心情を克明に浮かび上がらせているところにある。このような芸当は一朝一夕でできるものではないことは、ワナビライターのみなさんならよくわかっているはずである。短くはないであろうキャリアとそれに伴う技術力、細部まで文字表現で塗りこめられた完成度の高い世界観、そして、それらを文庫60頁という決して多くはない分量の中で余すところなく、まんべんなくちりばめることのできるセンス。ぼくが知っている同人創作者の中で、これほどまでにバランスよく様々な要素を持っている人はいなかった。

 隣のブースは予想通りの「強者」だったのだ。

 

 そんな感じです。

 ちなみに、第1位は反対側の隣のブースの本だったりするのでお楽しみに。