日本ごうがふかいな協会広報

日本ごうがふかいな協会の広報ブログです。

チャンネルがぶっ壊れている人間に人並みの生活を要求するのは罪とみなされるのか

 

 どうもかーびぃです。脳みそがまともに動き出したので普通のわけわからんタイトルに戻ります。

 

 ぼくの大好きなアーティストのひとつ、トミーヘブンリーに「monochrome rainbow」という曲がある。バクマン。か何かの主題歌だったかと記憶している。イントロからサビまでのテンションの上げ方と、「迷っている僕と導く君」的な、確かに誰かと生きていく歌詞のメッセージ性の強さ、そしてこの迷いよどんでいる主人公を歌詞と歌唱の両方で表現する川瀬智子の力量を全身で感じられる力作だと個人的には思う。

 

 文フリ金沢シーズン3位に入った本、それもそういった素朴な強さと書き手の力量とセンスを前面に押し出した力作ではないかなと感じる。

 

「cuddle」著:相楽愛花(素敵な地獄)

(通読性:16、宇宙感:18、残響度:14、嗜好:6、闇度:A 合計:61点)

 なんとなく手に取った本がこう、すべてにおいてセンスの塊で、弾丸のようにぼくを打ち抜いていくという感覚は結構な確率であるくらい、最近の文フリ界隈はすごい作品が多いわけであるが、それをこの分量で感じさせられるとは正直思わなかった。

 先日、この相楽氏の別の本「Dear friend of Dawn」についてちょっとテンションが高い感じで述べさせてもらったが、まさにこの文章は素材そのものを生かす味付け、という表現のしようしかないのではないかと思うくらい、この相楽氏の持つ斬新な視点とセンスがにじみ出ている。この作品はむしろその素を抑えながら書いたような跡がすごくいろいろな部分にのこされていてハッとする。その証拠というほどでもないが、冒頭は比較的整地されている文体が、後半になるにつれて徐々に徐々に、リリカルみを増していっているのがこう個人的なポイント。

 字数にしてどれくらいだろう、たぶん1万字ないんじゃないかなあ、くらいの短編なんですけど、まず舞台が何らかの理由で独立した近畿地区、っていうサイバーパンクみあふれるぶっ飛び方に比して、描かれているのは学校という閉鎖的な社会からあぶれてしまいそうになる二人の女生徒、という学園もので普遍的なもののひとつであるほどのスタンダードさ。この組み合わせ。この組み合わせでありながら絶妙に息苦しさと薄暗さを表現する力。そしてあとがきのセンスあふれる爆発的な文章。

 こういうのですよ、こういうのを同人誌(DOJINSHI)っていうんですよみなさん!!!!!!って叫びたくなるような、素朴さと切なさと力強さと(小室さんかな?)みたいな、ありえんよさみがふかいどうじんしだった。

 文フリ東京も出すらしいぞ!

 かいにいこ。

ハロウィンの次はイースターなのか~~~そうなのか~~~~~~やぶへび~~~~~~

 

 どうもかーびぃです。

 

 頭の悪いタイトルしか思いつかない体になってしまった。

 

 さて、さっそくですが、文フリ金沢シーズン、惜しくも選外になってしまった同人誌のみなさんについて、まとめます。

 

「ワールドエンドワンダーランド ぼくらの寮と町と魔女について」

著:武田(土星文庫)

 個人的にものすごーく設定がツボだったし紹介文も端的だったので買ってきた一冊。設定に偽りはなく、最後まで一貫して海水面の上昇により限界集落化しているある地方都市の中で、間もなく廃校になる男子校の生徒たちを中心とした出来事が、ホラー風味に、淡々と起きていくさまを描いている。オチが納得のいく形で表現されており、出てくる登場人物がとても血が通っている感じがして、特にぼく自身が男子校の人間だったこともあり生徒の会話がかなりそれらしかったのが驚きだった。そう、この小説の不思議なところは、男子校の、それも衰退する世界で滅ぼうとしている男子校の、最期の日常をひとつの事件を軸に淡々と描いているのだが、文体があまりにも淡々としすぎているがために、なんとなく語り手は女性なのではないかという気がして、読み終わった後にすごく不思議な感じがした。別に男性が書いていても何も不思議ではないし、むしろ、なんというか、男子校特有の会話の流れも節々に出ているあたりが、こうリアルすぎない程度にリアルなわけで、逆にそういうところがこう、男子校出身の男性じゃなさそうだな感があるのかなあ。ここはよくわからないです。題材の組み合わせがとても面白かったし、素敵な雰囲気の文章でした。選外になったのは、単純にこう、インパクトというか、淡々としすぎちゃってるというか、ストーリーがこう、印象に残らない感じがしたんだなあたぶん。感情に訴えかけてくるのを極力排した感じがするのが、なんというか心に残らなかったのかもしれない。かもしれない運転。

 

「Black Sheep in the Cage ~The first incident~」

著:神谷アユム(青猫のすみか)

 いやーまさかのって感じ。このかーびぃ氏がまさかド直球のBLをつかまされるとはって感じですよ。正直最初の1ページで買いだなと思ったくらい、主人公に「ごうがふかいな」を感じたので買ったんですけど、それは予想通りだったんですけど、途中から「あれ?これもしかしてド直球BLでは?濡れ場めっちゃでるタイプのホモなのでは?」とか思い始めて、それは杞憂に終わったわけだが、なんというか、それ以上にド直球BLとしか表現できないくらい、「うわああああああああああ若い!!!!!!この作者若い!!!!!たぶんすげー若い!!!!!!!!!でもごうがふかいな度は高い!!!!!!!!!!」って感じが途中からすごいしてきて、というか設定も導入もどんどん「そういえばあれだな!!!!!!」みたいなわたしの頭の中のカミナリがですね、後追いでツッコミをいれてくるわけですよ。

 とまあなんかすごいdisり風な評をしているけれども、ストーリー的にも設定的にもてんこ盛りであることを除けばとても読ませる感じの流れだし、なによりこの人の文体、非常に感情に刺さる!すごい!刺さる!それがこう、ぼくがこの小説を「ド直球BL」と表現した理由で、こう、主人公と相棒のセリフのひとつひとつが!刺さる!すごい!刺さる!そしてそれを支える地の文!お前!お前が刺してどうすんだってくらい!刺さる!かーびぃ氏蜂の巣なんですけど!!!

 はあ、疲れる。この作品、読むのも紹介するのもすげー疲れる。

 いやもうなんというか、こう、すごいよい腐女子の妄想を見たというか、もうそうとしか言いようがない感じのやつなんですよ!妄想だけに!妄想だけに!!!!

 そういう感じの本です。クトゥルフが好きなのかな?って感じの。

 

「女の暮らし」著:上田聡子(スプーンと鈴)

 この中で一番おちついている。すごく商業っぽい感じがした。というか、これ、たぶん本屋で売ってても買う。それくらい隙のない小説群。端的に言えば、現状にめげそうになりながらも、支えを失いそうになりながらも、それでも強く生きていこうとする現代の妙齢の女性たちを描いた現代小説。登場人物の描写がとてもなめらか。表現力も卒がない。すごくありふれている話を「ありふれていますよ」とアピールしながらもしっくりと読み進められるように構成されている。文フリ金沢で出会った書き手の中ではおそらく一番場数を踏んでいるように思われるし、いままでかーびぃが見てきた同人の書き手の中でも、こと現代小説に限ればここまで克明に空間と人物を同時に描写しつつ、練られた展開で読者を引き込み続けられる書き手はほとんど思いつかない。まさに、歴戦の戦士のような、底力を思わせる強い書き手だった。

 それだけに思ったのが、「あ、でもそれだけなんだ」っていう。これだけの強い力と隙のなさを持っていながら、強力なインパクトをこちらに残さない。その上品さ。でもそれが、なんというかそこが、残念というか、この短編集全体におけるそれ自体のテーマというか、めちゃくちゃ言葉にしにくいんだけどあえて乱暴に言えば「お上品すぎる」感じだろうか。

 とてももどかしいです。

 

「Dear friend of Dawn」著:相楽愛花(素敵な地獄)

 もうこれ、さっきの逆!センス!そうすごいセンス!この人の紡ぎ出す言葉と、立ち向かう闇的ななにかがもうツボだった。ツボ過ぎて読み終わってからもうひとつの方を買ってしまった。そしてそっちの方が実はランクインしました。

 設定も深いところから浅いところ、なかなかに素敵なのだが、この本に関しては出てくる二人の女性のキャラ立ちと、出てくる夢の不気味さ。このマテリアルだけのすごいシンプルな小説なわけですが、この二つの素材がものすごく強い。もうこれは寿司です、SUSHI。ネタとシャリ、以上!それだけで食事は成り立つ!そしてそれも豪華なやつになるんだ!っていうその心意気と素材そのものの強さなんですよ。

 すばらしかった。そして取っていかなかったやつが実は最新だったっぽいという事実。

 

 くぅ~疲れました

 なんつって。我ながら結構な労力を費やしてしまったが、次からはランクインした3冊について、例によって例のごとくひとつひとつ紹介します。

 それではみなさんごきげんよう

押し寿司!!!!!!!!!!!!押し!!!!!!!!!!!!押しずし!!!!!!!!!!!!

 

 どうもかーびぃです。

 

 タイトルがクソポエムばっかりなのもアレだなあとちょっと思ったのでたまには適当な感じのタイトルをですね。

 

 というわけで、文フリ金沢行ってきました。

 金沢自体は結構行ってて、今回で人生7度目になる。生まれは埼玉育ちは千葉、大学は横浜という人間からすると比較的よく足を運んでいるほうではないかと思う。金沢は街並みが好きだ。観光都市として力を入れようとしているところと、本当にある古くからの街並みと、それ以前にインフラ的にどうにかしなくちゃいけなくてやむなく更新したところが混然一体となっていて、不思議な雰囲気を醸し出している。ちなみに、最期の更新する体力がなくなると函館になる。函館もまた趣があってよかった。また行きたいが遠い。かーびぃはひこうきがひじょうににがてである。気圧差に弱い生き物なのだ。飛行機自体はすごく好きなのに残念である。あと搭乗手続きとかも苦手。その点新幹線は切符をスイ―すればいいので楽なのだ。

 

 かーびぃはお寿司が大好きで、しかもこの前金沢に行ったときにおいしかったお店が忘れられなかったのだが土曜日の夜に急に頭痛で行く元気がなくなり仕方なく駅ビルでぶりのすしの駅弁を買ってホテルで食べた。ぶりのすしは帰りの新幹線で食べる予定だったが仕方がない。そして安定のうまさ。ますのすしも好きだけどぶりのすしの方がかーびぃ的には好きだし、笹寿しもバッテラも大好きだ。というかかーびぃ氏押し寿しめっちゃ好きだった。まあそんなもんである。

 7回も来ているとまあたいていのものは見つくしていて、駅周辺の主要の観光地で唯一行ってなかったのが主計町くらいだったから、ひがし茶屋街に和菓子を買いにいくついでに覗いてみた。ここがまさに金沢のまちづくりを凝縮したようなすばらしさがあふれている。思わず写真におさめてインスタグラムに投稿してしまったが誰も見ない。でも別にそれでいいのだ。

 

 肝心の文フリ金沢ですが、思っていたよりも小ぢんまりしていた。おそらく京都の規模を想像してしまったからなのだろうと思う。とはいえ、目だったのが、一般参加者率が比較的高い感じがした。ブースをぐるぐるしていると「あ、あのブースのひと」みたいな感じだったりオーラ的に一般参加者って感じじゃない尋常じゃない感じの比とっとかが結構いるのだが、この文フリ金沢に関してはそうでもない感じの人がわりといたイメージがある。

 あと、頒布物。

 結論から言うと、全体的におとなしい。東京のようなごうがふかいなもなければ、京都のような尖りもなく、かといってテキレボのようなエンタメごり押しのギラギラ感もなく、しんしんと降り積もる雪のように、けだし時折突き刺さるつらら、みたいな感じのやつが多かった。すくなくともかーびぃが手に取ったものは、そうだった。

 文フリ金沢シーズン、実は帰りの新幹線ですべて読んでしまったのでもう順位も評点も確定している。次回以降でその紹介をしていきたい。

 取り急ぎ、ここまでの活動報告に替えて。

夜空に輝く星が本当は何度の物体かなんて誰も知りたくない

 

 どうもかーびぃです。疲れてます。

 

 弐寺こと「BeatmaniaⅡDX」という音楽ゲームシリーズの最難関曲の一角としてそびえたち、そのアナザー譜面は、今なお同シリーズの段位認定(プレイスキル判定モード)の最高クラスである「皆伝」の最終曲として君臨し続けている、知る人ぞ知る「冥」という曲がある。こんな曲だ

 

www.youtube.com

 

 たしか、コンセプトは「冥王星へ向けてひとりの男がロケットで旅立つ」的な感じだったと思うがかーびぃ氏そんなに弐寺詳しくないからわからん。気になったらてきとーに調べてくれ。わしの批評なんてそんなもんだ。

 この曲のコンポーザーであるTatsh氏とdj.TAKA氏についての言及はめんどくさいので避ける。かーびぃ氏はこの曲が好きである。特に加速が終了してからの俗にいうウィニングランのあたりがめっちゃ好きだ。どれくらい好きかというと自分の小説にそれをモチーフとしたエピソードをまるまる書いてしまうくらいである。

kakuyomu.jp

 この長編の最後のエピソードの読みがまんまであることは賢明なるかーびぃファンのみなさんならすぐに気づくことだろうが、つまりそういうことである。

 

 マクラがマクラじゃなくなっている現象はいい加減卒業したいんですけどねえ。

 

「最深の心悸の宇宙の続き」著:酒井衣芙紀(無芸)

(通読性:16、宇宙感:22、残響度:19、嗜好:8、闇度:A 合計72点)

 先日、その他のところで書いたように、著者の酒井衣芙紀(さかい・いぶき)氏はテキレボ5で無料配布の文章を受け取ったときに衝撃を受けたことからこの詩集を買いにいったことから始まった。正直に言うと、自分のブースのほぼほぼ正面で、雰囲気がなんかほかの人と違うひとがいてめちゃくちゃ気になっていたところに無料配布があったから頂戴したらなんかすごいことになっていたみたいなそんな感じである。かーびぃ氏あるあるの勘ってやつだ。そういえば「見た目はオールドタイプだけど中身はニュータイプ!」っていうギャグを昔よく使ってた。

 そんなことはどうでもいい。

 結論から言うと、ぼくの勘と引き運が最高だったという話で、こういうのがあるからテキレボはやめられねえってなる巡り合わせを感じた。(「師匠」こと咲祈氏と出会ったのもテキレボ1である)

 いいから内容を書け。

 内容。とはいっても詩というのは専門外なので、客観的風の文章すらまともに書けないレベルなのだが……。もう、本当に簡潔に、何かひとこと言ってくださいっていうマスコミのクソみたいな質問をぶつけられたとしたら、「宇宙!!!!!!!!!!」って答える感じの。

 いや、こう、なんかこう、なんというか、何重にも宇宙なんですよ、何重にも。こう、いくら微分してもそのまんまのエキスポネンシャルな関数あるじゃないですか、そういう感じ。天の川とかそういう低次元な宇宙じゃなくて、たとえばこう、無限にマトリョーシカがいくらでも連なっていて、そして一番小さいマトリョーシカメビウスの輪みたいにある日突然わっと内側と外側がつながっちゃってさあ大変!みたいな、言語系SFもびっくりの集積されきったワードがそこにあるわけですよ。なんかこう、ワードひとつひとつが中性子オンリーで形成されてるみたいなきわめて甚大な重力と質量を持ち合わせていて、それが幾重にも幾重にも、つかず離れず連綿と続いていくのかと思いきや、それがこう実は1次元ではなくて、2軸にわたってることに気づくわけ。で、両方の軸から連なる平面を追っていくと急に3つめの軸が、4つめの軸が……みたいな感じで無限に次元が広がっていくわけ。もうアレですよ、自分でも何書いてるのかてんで意味不明なんですけど、この詩集そのものが宇宙、ってなくらいもう世界観から何から宇宙なんですよ。攻めすぎなんです。攻めすぎ晋作。ぼくがこの文章を初対面の人にいきなり晒したら引かれるのと同じで、この詩集、例えば自分がストーキングしている黒髪ロング一重まぶた微乳お嬢様系女子に渡したらもうそれはそれで大変なことになりますよ。

 マジで途中でボケざるを得なくなるくらいこの詩集について語る言葉が不足しているのだが、とにかく、全体から漂う、人間の肉体を極限まで概念的な意味で拒絶した造りになっている感じがもうとても、すごくすごくよい。その構造そのものの人間らしさとでもいうべきなのだろうか。これもひとつの「ごうがふかいな」の形なのだが(なんだそりゃ)、ぼくはこういう構造によわい。

 あとまじめな話をすると構成力に秀でているというか、単にテキストだけの構成にしていない作りがいいなあと思う。この人の別の詩集にはそれが前面に押し出されているし、作り込みというものがとても巧いひとではないかな、と思う。ぼくはむしろ言語でしか知覚できないのでその逆のスタイルを行くしかないだけにこういうタイプは本当に尊敬する。

 ちなみに、とりわけ「最小の単位で」と「十二光に恋」が好きです。

 

 記事の7割くらいはノイズですが、残りの3割にすべての重みを詰めてみた。

 これにて、テキレボ5シーズンの批評は終了です。次回は、文フリ金沢シーズンとなります。お楽しみに。

思い出にも五分の魂があるのだとしたら、その集合体が狂気と化して人を殺すに違いない

 

 どうもかーびぃです。

 

 ぼくらの青春といえばそう、ミスチルことMr.childrenなわけですが、彼らがミリオンヒットを飛ばしまくった中のひとつに「Tomorrow never knows」という曲がある。という曲、とかもったいをつけなくても下手をすれば日本人のボリュームゾーンの3割くらいはすぐにサビを思い浮かべられるのではないかというくらい、CDがアホみたいに売れた時代にそれこをアホみたいにいろんな曲を売りまくったミスチルの中でもトップクラスにヒットした曲だと思っているがいかがだろうか。え?「ニシヘヒガシヘ」のほうが好き?ぼくもだよ~~

 

 この曲は「果てしない闇の中に♪Oh!Oh!手を伸ばそう~♪」ってサビが有名ではあるが、全体的に歌詞を俯瞰するとなんかこう、「いろんなことやってきたけど前に進むしかねえんだよな」的な、「ごうがふかいな」的価値観を確かに持っている素晴らしい方向性でぼくはこの歌詞が大好きである。ゆえにエハラマサヒロの歌真似はあんまり好きじゃない。

 

 というわけで、文フリ東京(秋)シーズンに引き続く「ごうがふかいな」枠(今作った)としてものすごい本が今回、テキレボ5シーズン2位にランクインしている。

OMOIDE IN MY HEAD」著:富田(燃えてるゴミ)

(通読性:19、宇宙感:16、残響度:14、嗜好:7、闇度:A 合計:63点)

 これも隣のサークルからいただいたものである。文庫本56頁、決して多くはない文章に2編の高濃度な短編が詰まっている。どちらも、女装男子、いわゆる「男の娘」が物語の中心となる小説であるが、その濃度が半端ではない。前半は、大きな喪失感を抱えたまま生きていこうとする男性の話、そして後半はもがきながらなんとか幸せをつかみ取ろうとするカップルの話。いずれも「男性と女装がデフォルトになった男性」という組み合わせで、コモンを取り繕おうとするイレギュラー、というようにぼくには映った。それはイレギュラーが大手を振って歩くことが何かと難しい社会に生きているぼくたちを鏡のように映し出し、炎のようにあぶり出す。ぼくの嗜好としては前半の話が圧倒的に好きで、こちらがこの本の9割の「ごうがふかいな」を占めるといっても過言ではない。しかし、この小説が書かれた背景、そしてこれが平然と同人誌として即売会に並ぶ風景、それらを考えていった結果、むしろ「ごうがふかいな」を体現しているのは後半の小説なのである。ここがこの同人誌のすごいところで、つまり、内部性も外部性も「ごうがふかいな」でバランスがとられており、統一されている。これは「ごうがふかいな」を提唱したぼく自身でも作り出せない、かなり完成度の高い「ごうがふかいな」である。

 先日の「ヴェイパートレイル」とは逆のことを書くが、この短編集に登場する2組のカップルに「尊さ」は感じられない。むしろ、どことなく「やれたかも委員会」的な、自分の中に眠るIFを具現化した清純おじさん(童貞という言葉はあまりにも雑味が多すぎて、ニュアンスの方向性を狭めたい場面では使いにくい)の、まさに「業」を感じさせられる。素晴らしい、あっぱれとしかいいようがない「ごうがふかいな」であり、コアなかーびぃファンの皆様におかれましては、ぜひとも一読いただければと思います。とは言いつつもこのサークルは諸事情によりしばらく活動を中止してしまうそうだが。

 

 よく表現が独特とか言われるけどねえ、かーびぃ氏はみなさんよりはるかに語彙力がないだけなんですよ、自分の感じたことに綺麗に当てはめられる言葉を知らないから近い感覚でわかりやすい言葉をいくつも重ねて近似していく。だから詩は書けないんだね。

 的なことを次に書く、2017年初の70点超えを果たした詩集を読んで思った。