日本ごうがふかいな協会広報

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「明日がある」という事実に希望を感じられないみなさんへ

 どうもかーびぃです。お昼頃に考えていたタイトルをようやっと思い出した。タイトルを書いた紙をなくすというクソみたいなイベントを経て、人は大人になっていくんだよ。

 

 坂本九が歌っていた「明日がある」という曲がある。近年、ウルフルズがカバーしたり、さらに缶コーヒーのCMで使われたりしてまあつまり名曲感あふれる曲というわけだが、この曲、歌詞を読んでみればわかるが、「まあドンマイドンマイ、明日があるって」みたいな構成になっている。

 つまり、明日があるという事実に希望を持たせているというか、明日という未来に希望があり、今日より明日は絶対によくなるというある種の宗教的マインドを込めたそんな歌なわけである(要出展)。

 さて、現代社会はどうだろうか。景気は停滞し(というかもう良くなることは多分ないような気もするのだが)、はっきり言って今日より明日がよくなるとは限らない、どころか、今日よりずっと明日の方が納期は縮むし金はなくなるし自分は老けるしいいことなんて何一つないむしろ悪いことばかりだ、みたいに明日があることに希望を持てない人が増えた。そう、「明日がある」のではない、「明日もある」のだ。そういう人間にとっては、このある種の宗教めいた歌は、残念ながら精神ゲージを削るだけの呪いの歌に早替わりしてしまうのである。そりゃバブル世代と意思の疎通も出来ないわけだ。彼らがぼくたちのことを当然理解できないのと同じように、ぼくも彼らが理解できないのだ。そんな相互不理解を乗り越えることなく、避難してぼくたちは仕事をしている。それでバブル世代より全然少ない金しか稼げない。そりゃどうしようもないよデフレの世の中なんだからさ。

 

 そんな感じの小説を最近読んだ。(唐突)

 ということで、これは雑記に見せかけた批評ページである。残念でした、ざまあみろ。

 ということで、文学フリマ東京で手に入れた、咲折さんによる「空人ノ國(うつびとのくに)」。ジャンル的には和風SFといったところか。

 

 ぼくと同じく読んだ人がいるかもしれないので、これ以降はネタバレしまくりの予定なので、というかネタをばらさないだけの配慮が出来るほど器用に文章を書ける人間じゃないので、読んでいる途中、あるいはこれから読みたい人でネタバレが嫌いな人はここで引き返そう。今すぐだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 非常にうろ覚えでアレだが、伊藤計劃の「ハーモニー」において、意識というのは各側面からの合理的な判断のゆらぎが生み出している、という説がとられている。即ち、土壌としての地域性が失われ、地球上の文化がすべて画一的になったと仮定した場合、各人間の判断は合理的に画一化され、意識が消滅するというのがこの作品での答えとなっているわけだが(突然のネタバレ+独自解釈)、この作品においてもその「完全調和」こそが至上の世界である、というキャラクターが登場し、独自の方法で「神殺し」を試みる。それは、宗教を土台として形成された当該文明に対する明らかな叛逆であり、文明の破壊に相当する、いわば恐ろしく業の深い所業なのだが、しかしながら彼の抱いている感情の発端はいたって単純で、宗教の犠牲にされる人間を救いたかったという愛情にほど近い思いだった。

 この作品には、三組の兄弟・姉妹が登場し、自らの置かれた境遇と葛藤しながら物語を進めている。ひとつは、双子の姉妹であったがゆえにただの村娘から一対の巫女にされ、国全体を平穏に保つための、いわゆる政治的な犠牲者として社会に組み込まれる。前半ではその理不尽さが繊細に描かれている。さらにひとつは、ただひとつの運によって、ひとりは社の宮司(神官。おそらく作品内ではほぼ最高権力者に近い位置)、もうひとりは検非違使の隊長(近衛隊長のようなものか)と、その運命を分けられた兄弟である。お互いが逆の立場であれば、この国がたどる運命はかなり変わっていただろう。権力に対する執着と、ひとりの少女に対する執着。いずれにしても、この兄弟は執着というテーマを持っており、お互いに葛藤を抱えあいながらも強いきずなで結ばれているという絶妙な関係性が丹念に描かれている。最後は、悲惨な出自を経験し、成り行きから「神」に見放され、「神殺し」に加担することになった兄弟。彼らはお互いに対して共依存にも似た強固な愛着を持つ。彼らがたどった、ある種の救えない、もしくは救われきったような結末は、あえてここには記さないで置きたいと思う。

 作品中の鍵ともなる、人間の意識を消滅させ、「空人」へと変化させる薬。これは正に、「明日なんていつまでも来なければいい」と考えている現代の人間が最も欲しがる究極の薬である。実際ぼくも欲しい。だが、「ハーモニー」と同様、「空人ノ國」においても、最終的に意識の消滅した人間がどんどんと増えていくというディストピアに変化していく様子でラストを迎える。「個」の消滅した、「群」としてのみの生き物となった人間は、どこか蟻の大群のようで不気味である。

 

 まあ、ぜんたいてきにはこんなかんじ。

 めっちゃ偉そうですみません。かーびぃそういう語り口しか出来ないんです。

 

 人間はいつか、必ず何かを犠牲にする瞬間が現れる。その時、何を切り捨てるのか、みたいなのがすごく問われていて印象的だった。作者さんは「とても鬱なものになってしまった」って言っていますが、どちらかというと、一貫して同じ問いを発し続けていたという方がよい気がする。いままで咲折さんの作品はいくつか読んでいるのだけれど、どれもバックボーンにファンタジーやSFがあって、特に「あるキャラクターから見れば非常に幸せな終わり方だけれど、全体からみると悲劇でしかない」、もしくは「その組み合わせの中では幸福だがその過程で世界を滅ぼしている」みたいな形が頻出しており、また、制度側と非制度側の対立をドラスティックに描いているものが多いが、今回のものはどちらかというと、キャラクターが犠牲として切り捨てたものに焦点を当てつつ、「なぜそれを切り捨てたのか」という理由づけもきっちりとなされていて、今まで以上にキャラクター小説として完成されているといえる。

 

 僕はこの人を密かに天才だと思っていて、主な理由としては、この人の繊細にして豪胆な文体にある。この文体は冷徹に世界観を編み上げ、刃のような鋭さで読者に迫ってくる。地の文の文体そのものは平穏、強いて言えばやや重たい程度なのに、突如として現れるリリカルな展開は、まさに燕返しのようで、いつもはっとさせられる。時折見せる儚さが、どこか作者の本当の姿のような気がして、そこにも畏敬の念を感じざるを得ない。あっこの人は寿命を削ってまでも自分の書きたいものを書いているのだな、それにひきかえかーびぃは……みたいになる。なんでもかーびぃと比べるなよ。

 ただこれはかーびぃが感じたことなので他の人にどう読めるかはわからん。かーびぃ他人の感覚を全く信用しない生き物なのでぢゃな。

 

 脳味噌の呼吸が止まったしなんか昔とある黒髪ロング一重まぶた微乳お嬢様系女子にお手紙書いたときみたいな精神状態になったからここでやめる。これ以上書くと死ぬ。主に明日が。かーびぃには明日もある。