かーびぃのメモ帳

球体の生物が日々感じたことをつぶやくよ!

一生懸命やることの何が悪いのか、自分の分身を作ってよく考えればいいと思うんだ

 どうもかーびぃです。

 

 かーびぃがまだ人間だったころ、いや、半分かーびぃになりかけていたころ、それはつまりかーびぃの大学生時代ということになるのだが、かーびぃはとある合唱団に入っていた。大学の合唱団である。

 入った理由は、大学に入って初めて話しかけてくれた女性の先輩がその合唱団の副団長だったから、というものすごく簡単なわかりやすい理由だった。仕方ないじゃない、かーびぃが人間だったころは童貞臭丸出しのキモ・オタクだったんだから。

 

 結果から言うと、かーびぃはその合唱団に入ったせいでかーびぃになってしまったわけだが、その話はまた今度。たぶんあと1000年くらい時間が必要だ。まあそのころかーびぃ死んでるけど。かーびぃは短命な生き物である。

 

 ぼくは合唱という音楽形態はとても好きだ。楽器がなくても人さえいればいい。声帯さえまともに動けばいい。ぼくが経験した中では最もシンプルに楽しめる音楽と言っていい。その割にことばと旋律の両方の側面、そして男声、女声、混声で技法が変化するという奥深さもある。これほど無限大に広がる世界もないだろうと思った。

 ただ、ぼく自身としてはビジネスにつながらないのであればもう合唱の世界に身を置こうとは思わない。合唱という音楽そのものとそれを取り巻く人たちとの間には死ぬほど大きなかい離があるように思う。何が違うかと言うと自由度だ。合唱曲はその性質上、非常に自由度が低く作られているし、それを多く演奏する合唱団は、当然ながら合唱曲に特化した合唱団となる。すなわち、思考と解釈の天井が狭くなっていくのだ。ぼくはこれを肌で感じていた。また、議論がやたら下手な人が多かったのも困った。これは単にぼくがいた合唱団だけの問題だったと思うのだが、要は大学の合唱団なので、人間関係だけで全体の方針や演奏、練習の雰囲気まで支配されるし、なんだその不自由な話は、ってなるわけだ。特に音楽批評に人格否定を天丼してくる某女性の先輩がとても苦手だった。「自分は頭が良くて正しいことを言っているし、なによりかわいいから正義じゃん?」みたいな感じの雰囲気を隠さない感じのあのタイプ、と言えば伝わるだろうか。その先輩の所為でぼくはずいぶんと所属している合唱団そのものにヘイトを貯めていっていたし、よく辞めずに事務局長までやったな、などと思うくらいだ。

 まあもっとも、全部が全部こんな合唱団じゃないことはわかっている。むしろこれくらい縦社会でそのわりに求心力が低いような合唱団のほうが稀有だったのだろうけれど、たまに合唱を聴きに行くとどうしても耐えられないことがある。縛り付けられた声を聴くのはもういやなんだよなあ。

 逆に、自由に歌っている(ように聞こえる)合唱団さんはものすごい努力をされているし、何より団としての雰囲気がいいのではないかと思う。でも、そこにぼくは交われない。ぼく自体がその団の価値をスポイルしてしまう存在であるということがわかっているからである。一生懸命やることは否定しないけれど、一生懸命やることだけに命を懸けるような人間とぼくはこれ以上つきあいたくない。それはみんなも同じだろうと思っている。かーびぃは人間にものすごく不寛容である。

 

 がむしゃらにやっている人間は、ほんの少し方向を定めればいいんじゃないかな。