日本ごうがふかいな協会広報

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文字で叙述する、ということ

 どうもかーびぃです。

 

 タイトルからしてかなり(意味深)って感じになってしまった。いつものように関係ない話でも全然いいのだが、せっかくなのでたまにはタイトルに関連したものでも書いてみようと思う。

 

 ぼくが小説らしい小説を書き始めてから、今年で足掛け12年目になる。その中で最も強く感じたことは、「現実に起こっていること、もしくはぼく自身が考えていることを文字にすることの限界」である。

 小説および記事を問わず、ぼくはこれまで何度も「文字で叙述するということは空間を微分することに等しい」という概念をとなえてきた。現に今もぼくはそう思っている。書き手の中で展開されている空間を文章に折りたたみ、読み手はその文章から展開して自らの中にその概念を取り込む。それが言語であり、その言語を文字化した文章の目的である。読み手、および書き手はそれぞれ独立した個体であるならば、概念の言語化のプロセスは異なるため、同じ文章から全く違う概念が展開されうる。ここまで書くと、概念の言語化は微分ではなくて暗号化、もしくは因数分解に相当するだろう、という話になるかもしれない。しかしぼくはそういうことを言っているのではない。プロセルの類似ではなく、感覚として、関数の曲線に接線を引いて、関数について掘り下げていく行為が微分であり(厳密には違っていることなら指摘されずとも知っている。かーびぃは厳密なことが嫌いだ)、概念を言語化するアプローチはまさに、正体不明な関数に幾度も微分を施して展開していくような、言語化するプロセスそのものとはむしろ逆の感覚をぼく自身にもたらす。他人の感覚は知らない。かーびぃは他人になったことがないからだ。

 文字で叙述する、つまり言語化することの主な利点は、相手に素早く情報を伝えることができる点と、現実に存在しない、もしくは知覚しえない概念をも伝えることが可能という点の2つではないかと思う。

 ぼくは現実に存在するもの、あるいはしそうであるものに関しては比較的うまく言語化できているように思う。しかし、逆に現実には存在しえない、どころか多くの存在には知覚できないような概念を表現することはあまり得意ではないし、それを読み解くことも苦手だ。だからぼくは最終的に、ファンタジーやミステリーよりもSFや純文学を多く摂取しているのだろう。その裾野が多岐にわたっているファンタジーはともかくとして、ミステリーというのは純粋物理みたいな、言ってみれば「摩擦係数これね」みたいな感じで規定されたルールの中で、あらかじめ書き手側が指定した空間の中で叙述された文章であるため、文章から概念を読み解くのが、ぼくにとっては少し難しいのだ。それは現実の空間とは異なった、言語叙述に適した空間にマイナーチェンジされているからだ。この差をものともしない読者のほうが大半なのだろうけれど、ぼくはこの差がやたら気になる。逆に、SFで求められるような厳密性はぼくにはない。そこは想像できるでしょ、みたいな甘えが確かに存在している。ぼくがミステリーとSFを比較的読んでいるにもかかわらず、このどちらにも手を付けようとしないのはそういうところがすでに分かっているからでもある。

 

 説明文だと思っただろう、残念ながらこれはただの日記なのだ。