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かーびぃのメモ帳

球体の生物が日々感じたことをつぶやくよ!

絶望的な非日常を葬る覚悟がないからいつまでもワナビから抜けられない的なジレンマ

 どうもかーびぃです。ゴールデンウィーク明けの勤務は思っていたほどきつくはなかったけれど、最終日周辺のスケジュールがきつすぎて、そういう方向では厳しかった。すげー眠い。

 

 ぼくはなんのために小説を書いているのか、とたまに聞かれることがある。明確な答えはない。しいて答えるとするならば、書いていないと死んでしまう病気にかかっているから、というものになるのではないかと思う。そりゃ書かないでいられるのであればそのほうがいいし、実際書かないまましばらく過ごすこともできる。けれど完全に何も書かず、何も考えずに生きられるかというとそれははっきり言って無理なのだ。賞に応募もせずひたすら書いているのもそれが原因だし、だったら自分で持っておくだけにすればいいというのはその通りかもしれないが、それではどこかもったいないような気がするというか、そこで意味の分からない矜持みたいなのが頭をもたげてくるのである。ぼくはこれを「消極的反社会性」と考えている。嘘、今思いついた。 

 

 批評文というのは、どうしても上から目線になってしまうもので、だから批評サークルというのはゆとり世代には人気がないと聞いた。なるほど目線の高低差に敏感な世代だから、それはとてもよくわかるし、実際勘違いして徹底的に高飛車な批評サークルというのをいくつか見かけているしそれで嫌な気分になっているので、自省したいところだ。だが、あんまり目線に敏感になってしまうとそれこそ生きづらいよなあとも思う。目線の高低はそりゃつくでしょうよと。自分の意識の問題で、それが如実に描出されるということは、逆に社会としてはフラットなんじゃないのって思うわけ。無理やり高低差をなくそうとする努力ばかり続けていても、それは表現技法の統制というか、結局伸ばすべき場所を伸ばさないまま未成熟の人間を多く出してしまうのではないだろうか、的な公益性のありそうな思考をしたところでめんどくさいからこの話はやめよう。

 

 ようやく、本当にようやく今まで書けそうになかったものが、なんとか書きだせそうな予感がしはじめたくらいの心境なんだけれど、これでもぼくの中ではお祭り騒ぎだしなんだったらこの執筆の期間中缶詰になりたい。リソースを食い破りながらぼくは日々生きているしリソースを生産する手段を持たないままきっと死んでいく。それが一番美しいって思ってるけど誰も信じてくれないのだ。ちーん。

 

 だいたいまともなアレをアレしてない時点でアレだよアレ、アレじゃんなあ。