日本ごうがふかいな協会広報

日本ごうがふかいな協会の広報ブログです。

悪人のいないドラマの居心地の悪さはつまり自分自身の悪意が突き付けてきた銃口である

 どうもひざのうらはやおです。

 

 長いこと放置してしまった。なんとなく、書くのが難しい作品を放置しがちである。決して感じないものがなかったわけではない、むしろその逆で、まとめることに非常に労力を使うものにこの傾向がある。ぼくもそんな文章が書きたいと思うそんな今日この頃である。

 中島みゆきのヒット曲に「空と君とのあいだに」という曲がある。中島みゆきはその作家性が本当にどの曲をとっても全面的に主張しているのが特徴であるが、その最たるもののうちのひとつがこの曲である。子役であった安達祐実が印象的であった「家なき子」の主題歌として抜擢されているが、その壮大でだけれどミクロな心情の濃淡というのが聞いていて心を揺さぶられるし、実際多くの歌手によってカバーされているのが、少し探すだけでも出てくる。それほどまでに時代を、中島みゆきを代表する曲のひとつなのだろうと思うし、中島みゆきはこれ以外にも自らを代表する曲を多く作っているし、多くの名曲を他の歌手に提供している。凄まじい作家力を持っているひとりであることは、だれも疑いようがないと思う。

 

「こおれぬひび」著:佐々木海月(エウロパの海)

文体:32 空間:35 (半客観分野:67)

感覚:31 GF:38 (主観分野:69)

闇度:0.608 レート:7.333

総合:129.275(静岡文学マルシェ2シーズン 2位

 

 この作品についての記事を書こうと思ってから、実際にこうして今書き出すまでに実はかなりの時間が経ってしまっている。実際に読んだのは、夏前、東武特急に乗っているときのことであった。ぼくはだいたい、シーズンレースとしてはもっとも期待しているものと、その対抗馬となるものを最後の2つにする傾向があり、この作品はまさにもっとも期待していたオオトリであった。(ちなみに対抗馬は惜しくも選外となった凪野基さんの「凱歌」である)

 ぼくは佐々木海月氏の絶妙な距離感を持った精緻な文章がとても好きである。そこに横たわるのは圧倒的な知性であり、それゆえの制御された情熱だ。この両方を表現するには相当な技量が必要である。佐々木海月という書き手は間違いなく、そのちからを持ちうる人間である。ぼくがここまで読んできた書き手の中で、最も強い書き手であるということは、ハンディキャップとしてのレートが7.333と有レート書き手のトップとなっていることからも明らかだ。

 さて、それはともかくとして、この「こおれぬひび」はなかなかに特殊な短編集であったと言わざるを得ない。まず、装丁。横長なのである。これはおそらく様々な理由によるものであるが、しかしその横長の変則的な装丁が最もマッチしつつ、氏の冷徹とも解されかねないくらいの強直な文体がまっすぐと並んでいく様には感銘を受けた。

 また、その内容も特殊である。前書きには平成24年3月11日、すなわち、東日本大震災から1年が経過した日から、毎年、氏が3月11日に公開してきた小説を7編、すなわち平成30年3月31日のものまでまとめたものである。氏の主要ジャンルであるSFや幻想文学に寄せているもの(氏の小説の世界を写し取ったものなども存在していた)、またやや純文学に近い趣をもつもの、というように雑多であるのだが、それがそのまま、氏の本棚を見ているようで、カレンダーに重ねて何かを書いているような、そんな独自の祈りのようなものを感じた。

 そういったところも含めて、この作品はどこか墓標のようにも、道しるべのようにも思える。そしてこの作品は今シーズンの新刊であった。そのためオオトリにしていたし、事実、評点としては2位に圧倒的大差をつけてのトップでもおかしくはない。

 

 しかし、この2位ともかなりの差をつけて首位になった作品が実はあって、ぼくはそれをまだまだ記事化することが出来ないでいる。

 それについてはまたこんど。

散っていった遺骨に黙とうを

 どうも、ひざのうらはやおです。

 ずいぶん時間が空いてしまった。この作品にたいして、ぼくは評をすることが難しい状況にあったからである。何も、この作品だけのはなしではなく、すべてのコンテンツに対してまともに何かをコメントできる状況になかった。

 さて、言い訳はともかく、こうして戻ってきたからには、ふたたび始めなくてはならない。

 

 THE BACK HORNの曲に「レクイエム」というものがある。大げさに退廃的な歌詞が好きで、よく聞いている。このバンドの方向性をがっつりと足固めしたような曲だ。

 

「input selector ISSUE:Late2007」編:言葉の工房

文体:30 空間:30 (半客観分野:60)

感覚:34 GF:31 (主観分野:65)

闇度:0.496 レート:0.386

総合:125.110(静岡文学マルシェ2シーズン3位

 

 静岡文学マルシェを主催している、添嶋譲氏のサークル「言葉の工房」の編集した合同誌である。一般的な文芸誌のような手に取りやすい装丁で、主催の作品ということもあり手に取った。

 寄稿者はぼくの知っているひとから名前も知らないひとまで様々。読んでいても、その文体に様々な表情があったり、書き手が同じであっても演出によってここまで色が異なってくるのだ、と思い知らされたり、装丁からはむしろ想像がつかないくらいの濃い同人誌であった。

 それだけに、面白いもの、そうでもないもの、なにかひっかかりを感じさせるものなどいろいろあるわけだが、最も印象的だったのは雲鳴遊乃実氏の「破壊神へのラブ・ソング」であった。マクラ曲に選定したものは、この作品の雰囲気に引きずられている。「破壊神へのラブ・ソング」は、主人公が死に、(主観における)世界が滅びていくまでの情景を、主人公自身の心情や過去の記憶などを巧く織り交ぜながら非常に生々しく、赤裸々に、美しく描いている短編だ。極めて雑にいってしまえば、「セカイ系」の亜種のような舞台設定なのであるが、その独白の心地よさが端的に言って非常にすっと入っていけるようになっていて、おそらくぼくと氏はどこか通ずるものがあるのだろうな、と思った。

 実は、雲鳴氏はぼくの作品をいくつか読んでいただいていて、その感想を記していただいている。特に、最近著「平成バッドエンド」に対する評において、

どの小説、エッセイも、僕は素直に受け止めることができた。

年代や居住地などは意識する必要もなく、ごく率直な感想として、氏にはちかしい印象を抱いていた。

byebyecloud.hatenablog.com

 と語っている。氏の「破壊神へのラブ・ソング」を読んで、ぼくも似たような感触を得たので、今後氏の作品をいくつか読むことになるのだが、おそらくはどこか似ていて、それでいて全く違う景色が広がっているのではないかと期待している。

 

 この合同誌は小説以外にも、短歌やイラストとの融合など、文芸という枠の中でも多様な作品集となっていて、非常に読みごたえがあった。125点というのは、合同誌としては非常に高い評点で、本ステージのシーズンレースとしては、現在「N.G.T ナンバーガールトリビュート」「常世辺に帰す」に次いで評点の高い合同誌となっている。静岡文学マルシェは第3回も盛況のうちに幕を閉じたとのことだが、その後でもこの作品集のような、シンプルでかつ同人誌と呼べるような意欲的なものが出ていくような世界であってほしいと、ぼくは切に願う。

 

 2位となったものも、様々な感情が入り混じっているので、しばらく時間がかかるものと思われる。

 できれば、期待をしないで、待っていてほしい。

眼前の世界は自分にしか見えていないし、それがほかのひとに見えることはない

 どうもひざのうらはやおです。

 

 同人活動をしていたときにたまに聞かれてそのたびになんだかなあと思うことがある。「あなたが低評価をつけたものを書いた人の気持ちを考えたことがありますか?」みたいな質問が、まあ年に1,2回くらいの頻度で聞かれるので、おそらくそこそこ多くの人がそんなことを考えているのだろうと思う。

 はっきり書くが、そもそもぼくに向かってそんなことを質問する人間とはそもそも思想からして全く合わないと思うので、ブロックするなりミュートするなりして関わらないことをお勧めする。もっとも、そういう人間はこのメモ帳を読みはしない。ツイッターでいけすかないツイートをしているぼくがたまたま目に入ったとかおおかたそんなところだろうとは思う。つまり何が言いたいかというと以下の通りめちゃくちゃ考えているので非常に不愉快であるということが言いたい。

 次質問したらアイスピックだからな。

 で、質問に答えると、「死ぬほど考えているつもり」である。そもそも上位しか紹介しないのは、手間と時間がかかり有効に同人誌を読み進められなくなるからだし、まとめの評点を公開しないのも下位に相当する作品を明言しないためである。いかにこれがぼくの主観的な評価であるとはいえ、目に見える形で低評価を残すのはいかがなものか、ということは常々考えている。しかし、高評価だったものに関してはぼくはもっと多くの人に知ってもらいたいと思っているわけだ。ここに待遇の差別化が生まれる。

 そもそもぼくが下した評価について、それが高評価だろうが、そうでなかろうが、受け止めるか受け止めないかまで含めて誰だって自由なのである。ぼくが自由に読んだものを比較するのも自由だし、あなたはそれを読んでも、読まなくてもいい。ただ、あなたが読んで思った感想についてぼくは求めていないし、あまつさえそれに対するいかなる対応についても応じる義務も義理もない。これはそういう話だ。

 そもそも、自分の評価軸すら持てないひとがなぜ多くの人間に自分の創作物を見てもらいたいと思うのかがぼくには理解しがたいところではあるが、それについては実際にそういうひともそれなりの数見てきているし、かれらを安易に否定すべきでもないとは思っている。もっと軽い気持ちでものを創ればいい、とポジショントークとしてはぼくも言うことがある。これもそういう話だ。

 

 くだらない話に1000字近く使ってしまった。

 本来はこの後に静マルシーズン3位となる作品の紹介をしようと思ったが、さすがに失礼すぎるのでまたの機会にする。

他人がなんと言おうとぼくにとってそれは「いのち」だった

 どうも、ひざのうらはやおです。

 

 シーズンレースを書く予定だったんだけれど、はっきりいってそんな場合ではなくなったので、思ったことを書きたい。

 

 今朝、飼っていたハムスターが死んだ。20か月。ゴールデンにしてはまあ、普通よりちょっと短いくらいだろうか。

 医者曰く、12か月を超えてくるとハムスターは腫瘍ができやすくなるらしい。人間も40~50代くらいでがんと診断される人結構いるもんなあ、と思った。そういう意味ではその死はありふれていて、多くの統計的なデータのうちのひとつに組み込まれてしまうようなたぐいのものなのかもしれない。

 前飼っていたものと同じくらいの涙を流しただろうか。出張前に看取れてよかったのだろうか。深く考えるも答えは出ない。今これを書いている横でケージを噛んでいるような気がしてくるくらい、その死は身近ではない。しかし、そんな音はしない。

 彼女の容体が急変したのは昨日のことだった。たまたま近所にハムスターを見れる病院があったので、診療時間外に急患で駆け込んだ。そのとき打って貰ったステロイド剤のおかげで、ぼくは朝、まだ生きている彼女を見ることが出来たのだろうと思う。

 

 同じ昨日のことだった。1か月くらいプレイしていた「NierR:Automata」のだいたいのシナリオと隠し要素を遊んで、そのDLCエンディングを見た。なぜ今の今やっているかというとそれはGWの時にダウンロード版が安かったので、以外の理由がないわけであるが、評判通りのクオリティだったと感じるし、何よりおどろいたのは、このDLCエンディングの楽曲「命にふさわしい」が、非常にぼくの心を撃ちぬいたことだった。amazarashiというアーティストは実は聞いたことがなかったのだが、これ以外の作品も聞いてみて、むしろ今までなぜぼくは触れなかったのだろうと思うくらい、すべてがぼくの心に強く強く突き刺さった。ボーカルとリリックの存在感たるや。これを最大限に生かした曲作りをしているところも非常に心を打った。

 

 で、こんなことが立て続けにおこったので、「いのち」とは何だろうか、と深く考え込む羽目になった。おかげで今日の出張は何をしていたのか思い出せない。

 

 なかなか結論はでない。生物なら「いのち」かというと、そういうわけでもない。例えば風呂場に居残るカビや、下水道から湧いてくるゴキブリやドブネズミを「いのち」とはちょっと思いにくいし、無限に生えてくる雑草も、連想はするけれどもそれひとつひとつを「いのち」とはなかなか認識しがたい。それに、無生物にだって「いのち」を感じることはある。ぼくはツイッターのアカウントが消えると「死んでいるな」と思うし、これを書いているパソコンが急にうごかなくなってしまったら、ハムスターの死と同じくらいには悲しむ。間違いなく泣くだろう。それは「いのち」であると認識しているからに他ならないのではないだろうか。

 ここまで考えて、はたと気づいた。ぼくの考える「いのち」の定義は、割としっかりしている。すなわち、「他と識別できる個体であるかどうか」だ。もっと言うと、そこに「個」を感じるかどうか、というところになる。

 前述したゲームは、まさにこの「いのち」とは何かという問いを極限まで突き詰め続けた作品であるように感じた。タイアップ曲のタイトルが「命にふさわしい」なんてものになるくらい、それは徹底している。人類が作り出したアンドロイド、それに類する生命体が作り出した機械生命体というこの二者が交錯し、互いに憎みあいながら、鏡あわせに対比されそして溶け合っていくという構図がそれを際立たせている。かれらは、どちらも同じ身体を無限に持ちながらも、生死の別を意識的に理解していて、それが物語そのものの鍵であり、いわゆる「ネタ」の部分でもあるわけだが、かれらが、まさしく人間と同じような思考プロセスを会得していく、もしくはしているさま、そしてそれらがさらに支援機にまで波及していくさまは、まさに「いのち」とは生物のみに宿るものではないという表現ではないかと思う。

 ぼくにとって、それはやはり「個」を感じるかどうかで決定する。同じ型番のパソコンがいくつも並んでいる電器屋でそれを感じることはないが、持ち帰って自分のツールとして使用すると、それを感じるようになるというのが一番わかりやすい例だろう。だから、前述のゲーム内でのキャラクターはそれらがプログラムされたアンドロイドであったとしても、それを滅ぼすために作られた機械生命体だったとしても、それが「個」であると認識できる以上は「いのち」とぼくの中では定義づけられる。

 逆に、人間であっても、たとえば今年自殺した人、といったような、数の中のもの、として考えるうえでは、ぼくは「いのち」を感じない。だからいまだに「アフリカで救える命がある」というCMには首をかしげる。まあ、もっともあれはそうであったとしても目の前にいる日本人はきっと救えないから無視をしているんだろうなと思ってしまうのですごくなんというか悲しい気持ちになってしまうから好きではないのだが。

 そう感じるから、ぼくはきっと名前を付けることにこだわるし、ありふれた名前とそうじゃない名前を極端に区別するのだろうなと自己分析した。名前をつけるというのは、ぼくのなかで「個」を認識する第一段階なのではなかろうかと思うわけである。

 だから、ハムスターの「すなこ」も間違いなく「いのち」だったし、そしてぼくがさらに思ったのは、「かれ」もやはり、ぼくの中では「いのち」だったのだ。

 しかし、それはあくまでぼくが思う「いのち」の定義であり、他の人がそうであるかどうかというのは、その人の意識にたどりつかないかぎり、わかりようがない。

 ここまで書いてわかる通り、ことばというものは本来主観的な概念から脱却することができない。ぼくはこの記事を日本語で書いているつもりだが、ぼくの書いた日本語が、ぼくの書いた通りに読める可能性は極めて低いだろう。もちろん、努めてその可能性を上げることに腐心しているつもりではあるのだが。そして、そういうスタンスであるからこそ、ぼくの書く小説にはおそらく「引っ掛かり」が非常に少ないのではないかと思う。可読性を上げれば上げるほど、ぼくの文体は意識されなくなり、ぼくの小説は記憶されなくなる。それはまるで、ぼく自身を見ているかのような気味悪さを感じることがある。ぼくの仕事というのもおおかたそんな感じである。ぼくの名前が残っている手柄、のようなものは、おそらく学生時代から通算してみても、ひとつもないだろう。当のぼくが覚えていないのだから。しかし、ぼくがいなくなったあとの職場は問題なく回っているし、ぼくだけが認識していた問題はたいてい誰にも認識されていないか、誰もが認識しているかのどちらかになっている。つまり、ぼくの仕事の実績というのはそういった部分にあるわけだが、これを履歴書に書けるか、というと難しい。その仕事場の環境を知らなければ、ぼくの仕事を理解することそのものが、おそらくできないからだ。評価や判断というものが、その主観性を脱することができない以上、ぼくのような人間は他者に自己の存在、あるいはそれに類する何かを「表現」しなくてはならない。その表現こそが、ぼくらをぼくらたらしめていて、ぼくらに「いのち」を吹き込んでいるのかもしれない。

 

 結局ぼくらは、自分以外の他者に対して、どう「いのち」を吹き込んでいくのか、ということの連続で生きていて、どれだけの存在に「いのち」を宿すことが出来るか、のようなものが、人生に問われていくような気がしてならない。どこかで読んだので妄想かもしれないが、「人生とは何をどのように他者に与えたか」であるとだれかが言っていた。ぼくは上記のように考えて、そういうことか、となんとなく腑に落ちた。だから、ぼくのからだを持つ男が死のうとも、ひざのうらはやおはその小説が物質あるいは電磁的データとして存在する以上は生き続けるし、さらにいえば、「かれ」は記憶にあるかぎりぼくの中で生き続けているのだ。

 

 誰が何と言おうと、これはそういうことなんだとぼくは信じようと思う。

 そのためにぼくは書かなくてはならないし、書いていくのだ。

 

 

遠い世界の出来事をすぐそこにあるみたいに考えられるその想像力を社会に活かせ

 どうもひざのうらはやおです。

 考えてみれば、この挨拶でシーズンレースの記事を書くことになるとは思わなかった。

 

 椎名林檎の曲はだいたいあんまり好きじゃないので、強いていうなら「丸の内サディスティック」だけはいろいろな思い入れがあってなぜか狂ったように聞いてしまう。一種の自傷行為みたいな。

 マクラ曲とかいらねえから。

 

 静マルシーズンに入ったのは文フリ広島の頃だったので、4か月くらいかかった。かなり長い。お待たせしました。

 まずは、惜しくも選外になってしまったみなさんから。

 

「平成五年のメタモルフォーゼ」著:本目詩水 天ノ川聲音

 平成五年生まれというふたりがユニットを組んで出した本。というまさにそのままの作品集。同年代の人間が紡ぐゴリゴリの純文学でありながら、ゼロ年代の空気を纏っているというのが鮮烈であった。ふたりともぼくには書けないみずみずしさがありながら、確固たる軸が見えているというのがとても印象的。

 

「埃をかぶった幻」著:烏兎緩々

 とある文芸サークルで起きた、謎を解き明かしてくミステリー風味の短編。小気味よい展開が、読む手を止めさせない。それだけにオチのまとまりはとても納得であった。表紙も小説にすごくマッチしている。読み終わってからもう一度表紙を見てみよう。

 

「普通の矜持」著:森村直也(HPJ制作工房)

 前日の打ち上げでなぜか記憶に残っていた森村さんからひとつ買わせていただいた。短い文章にこれでもかというほと情報を載せられていて、密度というものの奥深さを思い知った。SF的でパラレルワールドのような不思議な世界観だが、主人公の「製品」としての有能さと、それをそれとして描かないところにむしろ矜持を感じた。

 

「崩れる本棚 7.0」著:ウサギノヴィッチ ほか(崩れる本棚)(レート:1.224)

 そにっくなーす氏の作品がきになって手に入れた。古き良き(?)文芸よろず本のような印象を受けた。自由で、それでいてどこか同じ方向を向いているような。味わい深い。

 

零点振動」著:宇野寧湖(新天使出版会)(レート:5.92)

 以前テキレボかどこかで買った記憶があるのだが、その時は1巻だけだったのでその続きを手に入れてみた。完結しているかどうかが微妙にわからない(たぶん、まだ続くのではないかと思っている)ので、ここまででひとくぎりとしてコメントする。

 主人公の女性がかなり魅力的。宇野さんの書く女性は好きだなあと思う反面、おそらく氏がより力を込めていそうな男性キャラクターの印象が残っていないのはなぜだろうな、とつくづく考える。ぼくが男だからなのかもしれない。洋ドラ風味な展開と雰囲気ですらすらと入っていく。そういうものがお好きな方はぜひ。

 

「凱歌」著:凪野基(灰青)(レート:6.427)

 おはなし職人の放つハードハイファンタジー長編。緻密に物語を作り上げる氏が長編を作り込むとこうなるのか、というすさまじい密度と、情け容赦のない展開。読み応え抜群である。特に後半、怒涛で息をもつかせない、それでいて容赦がない展開が続く。それだけに最後の清々しさが救いになる。ここまで読んできた中でもトップクラスの緻密さを誇るといえる。ハードなファンタジーが好きな方はマストである。

 

「ゲンシ」著:遠藤ヒツジ(羊目舎)(レート:6.038)

 不思議な雰囲気を漂わせる、氏の夢現が入り混じるような作風の短編が詰まった作品集。とくに2つめの「体はあなたのもとに」がとても好き。淡々と非日常を描いていき、その上に登場人物の感情を塗りかさねていくのが、氏の作風なのかもしれないと思った。おすすめの一冊。

 

「僕の真摯な魔女」著:まるた曜子(博物館リューボフィ)(レート:5.920)

 氏の作品で最初に読んだ「野をゆくは魔女と景狼」と同じ魔女シリーズ。シリーズに共通する魔女という存在の設定を活かした物語に、こちらもなっている。この魔女の設定がとても好きである。恋愛と性愛、そしてそれらと繁殖が別個の感情もしくは本能として身体にプログラミングされているというのが惹かれるポイントなのかもしれない。氏の文体は渓流のように、静寂なようでいて強いエネルギーを持ち、しかも同じ方向に流れ続ける、そんなもののように思える。

 

 選外作品は以上。今回は高レートの書き手が多く、評点も実は非常に荒れた。5位までが120を超えている。ぼくの中では120が、「いい作品」と「すごくいい作品」を分けるボーダーであるように感じていて、120以上が記事化の対象だろうというイメージで評点化をしているのだが、今回は、とくに3位争いが非常に激しかった。

 3位の作品は、静マルシーズンの中でも期待をもって読んだ作品である。ぼくはこれを記事として紹介できてよかったと感じるような、そんな作品だ。

 こうご期待。