日本ごうがふかいな協会広報

日本ごうがふかいな協会の広報ブログです。

限界は漸次的に来るものじゃなくて、ある日突然やってくることに気が付かない

 どうもかーびぃです。

 

 今日は具合が悪くて会社を早退してきた。どれくらい具合が悪いかというと、別に身体はさほど悪くないのだ。まあ、多少胃腸がダメージがあるなあと思ったけれど、体はさほどという感じである。であればなぜ休んだのか。頭がまったく動かなかったのだ。何かをしたいという感情が浮かばないし、状況を把握するのにかなり時間がかかるのも気になった。これは明らかにやばい。外部的にはたぶんそこまで変わらないのだろうが、マジでなにも感情がわかないしこのかーびぃが飯がうまくないしこれはやばいうつ症状だああああああとなったので緊急事態が発生したが遠慮なく休ませてもらった。これは働き続けると無理というか、下手したら明日出勤するのもあまりよくないような気もする。この文章を書いている最中もびっくりするほど何も考えていない。いつもの数倍は何も考えていない。なんだそれは。たぶんあとちょっとでも無理をしたら本当に動けなくなりそうな、そんな感じだ。現状何も考えていないしなんか気が付いたらこんな時間になってる。さっき退勤したばっかりのイメージなんだけど。何が言いたいかというと本格的にやばいような気もするし明日も休みたいということだ。まあ明日はやることめちゃくちゃいっぱいあるし(今日やるはずだったことも含めて)他人は元から信用できないし行かなくちゃいけないんだろうけど。

 

 就活をしていた時に、あまり気が付かなかったことで、今となってはあたりまえのことなのだけれど、「仕事は最終的に人間同士で行うもの」というのがまだまだこの世界の常識だし、だからお金は存在するし経済はある。ぼくは他人が信頼できない。信用くらいならできるが、信頼するとなると難しい。同じ場面ならぼくは簡単に裏切るだろうな、みたいなことを普通に考えるし、そもそも他人の気遣いってつまり、見返りを期待していることは間違いがなくて、例えば目の前の男が老人に席を譲ったとすると、ぼくにはそれが求められているように思ってしまう。で、他人に対してそう思わせるのがぼくはとてもいやなので、社会的に善である行動でも、必要とされない限りはやらないでいた。学生時代は完全にそうであったと思う。

 社会人になってそうではなくなったのは、単純に求められていることを期待するという立場ではなくて、現に求められているというか、社会的に善であることをしないことに対するデメリットやリスクが非常に大きくなったことの裏返しに過ぎない。他人に対してこうであれ、と求めることは傲慢であるが、自己保身のために慈善事業をするのは、ビジネスにおいては仕方のないことだし、実際に社会的には善である(とされている)のだから文句のつけようもないだろう、とまでは思わないが、少なくとも今のぼくは過去のぼくに対してそういう言い訳をして老人に席を譲っている。本人にとって善であるかどうか、それが本当に全体の利益になっているかどうかというのは基本的には考える必要はない。いや、考えるだけ無駄、どころかリスクにすらなりえるのである。日本というのはとりわけそういう社会である。これを同調圧力と人は呼んでいる。

houhounoteiyudetaro.hatenablog.com

 この記事で少し書いたが、つまり「普通の人が持っているべきとされているものを持っていない人間に対して、その理由のいかんを問わず著しい不利益がある」というのが同調圧力の源である。たぶんこれは日本特有とは思えないが、少なくとも人権という文化が発達してきたところの考え方にはないものと考えられる。個人の人権が最優先される社会において、上記のような同調圧力の存在は大きな懸念事項となりえるが、日本の政治で少なくともそういう話が上がってきたことをぼく自身は聞いたこともないし、ぼくが耳にしたことがないということはおそらく大半の人間は聞いたことがないのではないかと推察できる。

 他人に対しての期待が異常に高い社会で生きるということは、すなわち十全な人間でなければ生き残れない社会であり、非常に後進的であると思う。常々思っているが、みんなどの口で日本は先進国だなどと言っているのだろうか。年間で3万人も自殺者が出ているような国のどこが先進国なんだろうなあと思うばかりである。

 

 とかなんとか適当に書いていても何にも気分が晴れないし何もしたくない。なんでこの記事を書き始めたんだっけとか思い始めたのでもうやめる。