日本ごうがふかいな協会広報

日本ごうがふかいな協会の広報ブログです。

受験と就活と部屋とトイレットペーパーとコンドームとかーびぃ

 どうもかーびぃです。

 

 この季節というと、特定の年代にとっては、受験や就活といった、人生のターニングポイントみたいな感じがしてなんだか少し気が滅入る。かーびぃは客観的に見ると両方とも「最終的には成功している」ので、めったなことは言えないというか、あまりいう権利もないとは思っている。だが、ひとつだけ言えるのは、「成功したからといってその先の人生がお前にとって有意義かどうかは知らねえよ?だってそれお前が決めるんだから」ということである。

 

 「毒親」という言葉がある。世間が求める親という偶像に対し、何らかを著しく欠いている親、というのがぼくなりの定義である。ぼくはこの言葉があまり好きではない。それはぼく自身の親もこれに該当する可能性があるというのがひとつ。そして、親として存在するすべての人間が親として完全であるはずがないという普遍性を忘れているというのがひとつ。この2点において、ぼくはあまりこの言葉を使いたがらない。もちろん冗談とか、使わざるを得ない場面とかがどうしても存在する場合には使うこともある。そういう変なプライドみたいなのはぼくにはない。ぼくはプライドを持たないことに対して異常にプライドが高い。

 一時期流行った、「息子全員を理3に入れた母親の話」というのが、非常にネット民の「毒親」像にマッチしていたみたいで、いろんな人が拒否反応を示していた。おそらく大なり小なり、ぼくの周辺には受験勉強を強制されて、死に物狂いで戦争を勝ち抜いたのに、大学でさしたる活躍もせず、就活でうまくもいかず、現状にただただ不満を抱いているような人がほとんどではないかと思う。なぜならぼく自身も、程度の差はあれそういった思いを抱いているからだ。

 ただ、ぼくは幸運なことに、勉強を強制されたものと思ったことは一度もなかった。それは、今まで出会ってきた講師がそれなりに優秀だったこともあるだろうが、そもそもぼく自身が「楽しめないものには一切取り組めない」という特殊性癖の持ち主だったからというのが大きい。当然最初は受験勉強なんて全く面白くなかった。何もわからないから当たり前である。意味不明な文章を読み続けてわかりもしない答えを探り当てることに価値を見出す人間は少ないだろう。勉強というのは知的フィールドを広げるための筋トレのようなものとは何度も書いているが、学校によって異なるにせよ、受験勉強というのはプロテストを受けているようなもので、何ができる何ができない、というところを見てもらって、そこで適性を見て「うちは無理だ」「うちならいいかも」という感じで、面倒を見てやろうという大学に巡り合えばおk、ダメだったらまた来年、みたいなイメージである。

 で、世間でいうところのいい大学に行くべき理由はいくつかある。イメージとしては高い山に登ることを考えてほしい。で、ぼくたちは目的地にグライダーで滑空したいのだ。当然ながら、高い山に登ったほうが目的地が見やすくなる。そして、遠くまで(物理的に)飛ぶことが可能となる。この2点でだいぶ有利になる。だが、高い山に登るにはかなりのエネルギーが必要となってくるし、それこそ一定の標高以上の山に関しては、一種の適性が求められる。すべての人間が例えばマーチとか国立とか、そういった大学に行けるとは限らない。それよりは、滑空するほうにエネルギーを残したほうが、実は利口だということもある。つまり、すべての人間が必死に受験勉強をする必要はないし、ましてや親を含む誰かの意思で特定の大学に合格させるというのは、本人が持っているポテンシャルを十分に引き出せないというリスクが存在することを考えるべきである。確かに、一見低い山よりも高い山のほうが圧倒的に有利であるように見えるし、実際に滑空するまでは完全に高い山のほうが有利なのだ。しかし、高い山に登った人間というのは、低い山に登った人間のことを知らない。低い山に登った人間もまた然りである。つまりどういうことが起こるかというと、仮に高い山に登った人間が「低い山に登っても行ける」ような進路を選択した場合、あまりいい結果にならない。なぜならその分野は低い山に登った人間ばかりがすでにひしめいている。高い山に登った人間は山を余計に登ったぶんだけポテンシャルを余計に消費している場合がほとんどである。あとは書かなくても読者諸君ならおわかりでしょう。

 ただまあ、ポテンシャルがさほどない人間からしたら、高い山に登って距離を稼いで、できれば低い山に登ったポテンシャルある人間から遠ざかりたい、ということもあると思うし、そういう意味でいえば当然高い山に登ったほうがいい。つまりたいていは高学歴のほうが得である。ただそれはマクロの話であって、おたくの息子がそうである可能性って、実は意外と低いですよって話なんですよね。

 中卒でも世の中のたいていの仕事は事実上可能である。テレビで雑学を披露している伊集院大先生だって中卒である。要はポテンシャルをどこで使うかという問題なのだ。そして、たいていの仕事はまだまだ前時代的なコミュニケーションで成り立っている。まだまだ先進的ではないこの社会において、仕事ができる人間というのは、コミュニケーションがうまい人間とほぼほぼ同値であることは認めざるを得ない。で、無理して勉強させると、たいていコミュニケーションは後でいいか、みたいな感じで発達が遅れてしまう。なぜかというと受験勉強というのは(だいたい間違ったイメージだと思うんだけど)書物・活字と対話することだと思われがちで、実際そういった部分に重きが置かれざるを得ない部分があるからである。しかしながらコミュニケーション能力というのは年をとればとるほど伸びにくくなるもののひとつなのだ。もうみなまでいわんぞわしゃ。

 でもさあ、普通に考えてみ?いい大学にいけるかどうかより、どれだけいい異性と巡り合えるか、あえて俗に言えばどれだけいい女とセックスできたかのほうが生物学的には重要じゃないかとわしゃ思うんですよ。まあこの二項は実は独立ではないので、並べること自体がアレなんですけど、つまりそういうことじゃないですか。

 って思ってる大人って案外多いので、高学歴の皆さんは気を付けてください。ぼくは職場がこんな感じの高卒出身ばかりで死にそうです。ずっと毎日が月曜日♪職場は隣が遊園地♪やな仕様書は全部ごーみばこにすてちゃえ~♪

 

 教科書見てもコミュニケーションなんて学べないからナンパだナンパ、って言って中学のころさぼってた同級生は結局性病にかかって死にそうになってたから世の中程度が一番大事だ。でも今の彼の手取りはぼくの額面より多いんですよねえ。