日本ごうがふかいな協会広報

日本ごうがふかいな協会の広報ブログです。

ぼくがぼくであるために

 どうもかーびぃです。

 

 人間たる者、一度くらいは自分の人生の意義について考えたことがあるのではないかとおもう。人間はいやおうなく自分の立場に縛られる。男として生まれた人間は男として生きざるを得ない。これは例えば心の性や性的指向がマジョリティと異なっており、そこに適合するべくして処置をとった場合でも同じことである。男性から女性へ性別適合手術を受けた人間は、性転換した人間としての立場・振る舞いを余儀なくされる。多かれ少なかれそれは間違いなくそうなのである。人間は案外自由が少ない。生まれ持ったカードをどうやって切っていくかというのがほとんどであり、新しいカードを引くことができる人間も、「新しいカードを引く」効果を持つカードを最初から持っていなければカードを引けない。それはものすごく理不尽なカードゲームだ。

 だが、仮に社会活動をカードゲームとするのならば、自分の有利なルールのある場所に行けばいいのである。もちろん、それもそういった効果のあるカードを持っていることが条件となる。逃げられる人間は、逃げられるスキルを持っているのだ。

 何が言いたいかというと、ぼくはそれらしい短編なら量産できるけれど、長編を書くために必要な「話の流れを組み立てる」というのがどうしようもなく苦手なので、そういった方向には向かないし、それが一番賞に応募しない理由なのだ。長編自体が向いていない。短編を無限につなぎ合わせたようなものしか書けない。というか、短編自体も話が完結しているかというとそうではないというタイプのものばかりで、つまりぼくの性質自体が話を区切るのがとんでもなく苦手なのである。昔からそういうところがあるしこれは例のアレなのかもしれない。

 

 人間が集まればそこに社会ができ、どんな社会でもルールが存在する。ぼくは小説を書き続けるために就職をしたようなものなのだが、それでいて小説で仕事ができるわけではなかったので、二刀流になることを余儀なくされた。自分では今の仕事は副業だと思っている。収入を得るためだけにぼくが用意した職業だ。

 だが、職というのは文字通り食いつなぐためのなりわいである。そこを勘違いしている人間がわりといる。というより、かつてのぼくもそうであった。食いつなぐということは、他人からそれを責任(お金=生活)をもって委託されるわけで、そこに仕事を果たす義理が生じるわけである。仕事を安売りすることは、すなわち自らの生活だけでなく、最終的にまわりまわって取引先の生活すべてをスポイルすることにつながる。だからこそ「プロ意識」というのが必要になるので、そこを踏まえたうえで社会に出ていかなければならない。そして、そこで得たお金は誰が何と言おうと自分のものであるわけで(たいていの人間は給与をもらう時点で税金を払っている)、何人たりとも文句を言うことはできないし、文句を言うべきでもない。

 

 ハラスメントを恐れる上司は、ただただ黙るという方策を知らない無能でしかないので、耳栓でもして出勤すればいいしそれでもだめならただの人間なのだから釘バットで百回くらい殴れば死ぬよ。