ひざのうらはやおのメモ帳

サイコパスクソメガネが祈る墓標みたいなやつ

主語がないレクイエムは何かを捨てていることと同義である

 どうもおもちくんです。

 ようやく、文フリ京都シーズンもこの記事で最後となった。長く、かなり体力を使ったシーズンであった。体感でいえば前ステージのあまぶんシーズンやテキレボ6シーズン以上の大変さだったと思う。読み応えがあるものばかりで、投げ出したものもかなり出してしまった。22作品中2作も落としたのはちょっと多いような気もするが、致し方がないとも思う。

 

 平成時代を代表するバンドはいくつかある。Mr.childrenスピッツ東京事変ナンバーガール等々とある中で、昭和に片足を突っ込んではいるが平成のサブカルチャーの一部分を完全に形成したという意味で、筋肉少女帯は平成時代を代表するバンドのひとつだといえるだろう。活動再開後にリリースしたアルバム「蔦からまるQの惑星」に、「捨て曲のマリア」という曲がある。何気なく作った「捨て曲」が、作者のひととなり、ものの考え方、その他様々なものを反映させ、また想定外にウケる、だけど作った自分は全然納得してない、ああ世の中もこの曲もやだなあ、という感じの歌詞が、ちょっとアーバンな曲調に乗って歌われる。

 だが、世の中そんなうまい話はない、とぼくは思う。いわゆる売れる売れないという客観的でひどく即物的な価値は、自分の価値基準とは異なるところにあるものだ。書き手を5年、文章を書き始めて10年のぼくには痛いほどわかる。そして、「捨て曲」のように作ったものが、作者の「ごうがふかいな」を最大限に引き出しているという神話。これもわかる。ことぼくをはじめとした書き手というのはわかりやすく、かつひねくれているということがわかる話にしたがる。

 けれど、現実はそうとは限らない。当たるも八卦当たらぬも八卦、ぶっちゃけていえば渾身の作品はスルーされることもあればウケることもあるし、逆に適当につくったものでもウケることもあれば順当にコケることだってある。大きな流れの中に身を置けばそれなりに大コケは回避できるだろうけれど、流れを読む労力とはなかなか釣り合わない。同人の世界はそういう運ゲーで満たされている。もちろん、売れることが正解とも限らない。そういう運ゲーである。なにがなんだかわからない世界で、なにがなんだかわからないことを怖がっている場合ではないのだ。

 

「すな子へ」著:泉由良(白昼社)

文体:32 空間:32 (半客観分野:64)

感覚:36 GF:37  (主観分野:73)

闇度:0.592 レート:なし

総合点:137.592(文フリ京都2シーズン 1位)

 

 あの、すみませんマクラの話はここと全然関係ないので置いといてもらっていいですか、すみません。

 というわけで、前シーズンでも記事化された泉由良氏が連続する2つのシーズンで記事化された。これは今ステージにおいては絶対王者たる師匠、咲祈氏と並ぶ記録で、昨ステージを合わせても歴代4人目(相楽愛花氏、佐々木海月氏は昨ステージで達成)の大記録である。また、この中でノンレート、すなわち書き手レートがない書き手は泉由良氏だけである。レートというのは固定書き手による、昨ステージの評点状況に応じたハンデ点制度のことで、書き手の(ぼく個人から見た)レベルを端的に表現し、かつそれに応じたハンデを施すことで、未読の書き手により注目が集まるだろうと考えて今ステージから導入したものである。

 つまり何が言いたいかというと、それだけ泉由良氏が、少なくともぼくの中では相当な書き手になっているということである。少なくとも、まんまる四天王と同じかもしくはそれ以上の水準にあるべきひとである。

 そんなことはさておくとして内容だが、大きく分けるとふたつの掌編が収録されている。これらは互いに交錯しているようでしていない、いやちょっとしてる、みたいな感じの関連性で、ぼくは後半部分の小説に大きく心を奪われた。

(ぼくが「心を奪われた」なんて表現はそうそうしないと思う。ためしにこのメモ帳を検索してみてほしい、この記事しかヒットしないはずだ。確かめたわけじゃないけど)

 心中もの、と表現するにはあまりにも壮絶な作中人物の激情を、淡々とした地の文と激しい心情描写のコントラストで表しているさまが本当にすさまじすぎて、文字通りぼくは通勤中の武蔵野線で絶叫しそうになった。まじで。

 前半の小説も、後半を読み返してから戻ってくるとさまざまなことを想起させられる。詩的で平坦なテンションながら、非常に示唆的でおもしろい。

 某氏がこの作品あたりから泉由良氏のギアが上がってくるよ、と言っていたのを思い出した。だとすればここから先のシーズンに設置された氏の作品はどれもとんでもない破壊力を持っているのではないかと、ふと思う。

 いや、本当に読んでほしいものほど読んでほしいとしか言えなくなる。困ったところだ。コメントがそれだけでは作者と同じになってしまうではないか。と、ここまで書いたところで、小説ってつまりは、どこかで作者と一体化する場面ってあるんじゃないかなと思った。この作品でいえば、それは前半と後半が入り混じる結節点、ちょうど真ん中の部分ではないかと思う。なんとなく、祈るような、そんな気分になる。作者がどう考えているのかは抜きにして。

 

 ということで、とっ散らかっているのが今回なわけであるが、しかしながら泉由良氏の作品はどれもこれも圧倒的な詩的パワーを感じる。「ポエジー」の語感的な妄想の中での意味に近いあの感じである。自分でも何を書いているのかよくわからないけど。この記事読んでなんだこれって思った人はみんな買おう。アマゾンにも置いてあるとかないとか(調べてない)。

 

 さて、これから文フリ前橋シーズンに入りたい。作品数も量も今回と比べるとだいぶ抑えめなので、そんなに時間がかからないことを祈る。