日本ごうがふかいな協会広報

日本ごうがふかいな協会の広報ブログです。

広報と表現のはなし

 長いことシーズンレース以外で記事を更新しなくなっていた。

 このメモ帳は何のためにあるのかといえば、徹頭徹尾、ぼくの公開備忘録として、ただそれだけである。シーズンレースだって、事業化しているところはあるが、原義的な目的は、ぼくがよりよい作品に出会えるため、ぼくの作品がより多くのひとに取ってもらえるためで、そのためにとった方法にすぎない。

 

 過日、尼崎文学だらけにて「しん・まんまるびより」という限定同人誌を頒布した。極めて簡素な日記のようなエッセイ集であったが、不本意にも(?)好意的な意見が多かったので、調子に乗って(?)、このメモ帳でも似たようなことを気が向いたときにつらつらと書いていこうと思う。

 勘のいい方はここでお気づきだろうが、カテゴリ「しん・まんまるびより」として残された記事の目的は、ぼくが「しん・まんまるびより」の新作を出すときの道しるべが主だ。それ以外は副次的なことにすぎない。

 

 ここ一ヶ月の間、文芸創作同人界で、たてつづけにショックなことが起きて、いろいろ考えた。そのことについて、ここに書き記したい。

 文芸創作同人界隈という、狭いのか広いのかいまひとつよくわからない社会で生き続けるには、何より広報活動が重要となる。どれほど作品そのものが素晴らしかろうと、それを必要としているひとに届けられなければ、意味がない。文芸創作同人界隈に身を置く以上は、作品を発表する根本的な目的として、それ以外はありえない。もちろん、作品を出すモチベーションや、インスピレーションは別に用意されていたほうが健全であるし、それをメインとしているひとも多いことはよく知っている。だがしかし、自分で書いた小説、もしくはそれ以外の表現作品をブラッシュアップして、ほかのひとの手の中に収められる形にした時点で、自分以外の誰かに読まれることを前提としないことはありえない。うどんの麺をゆでたらつゆがあろうがなかろうがうどんが出来てしまうのと同じである。本になった時点で、それを即売会その他のイベントに持って行ったり通販にかけたりすることで誰かの手に渡ることを前提とし、それを了承していなければ話が始まらないはずである。それはゆめゆめ忘れてはならないことだと、ぼくは自戒を込めて思う。

 話を戻そう。広報の目的というのは、「伝えるべきことを伝えられるべきものに伝え、伝えてはいけないことを伝えない」ということに尽きると思う。

 つまり、広報と表現活動というのは相似形であって、この同人という界隈に身を置く以上、広報活動まで含めて創作表現活動となってしまう。

 そう、なってしまうのである。

 本人がそれを望むか望まないかではなく、必然的にそうなってしまう。そして、そういった多角的な表現活動を行えば行うほど、その人となりと表現物は切っても切り離せない関係になっていく。どれだけ注意を払おうが、どれだけ切り離して考えようとしようが、本人が制作と広報を行っている場合は、必ず作品と作者はセットになってきてしまう。これは、創作系同人界隈特有の問題である。プロの世界では、最近はともかく、創作活動を行うひとと広報活動を行うひとは分けられている。だからこの問題が起きにくい。ここ最近でぼくが直面した、界隈でのショックな出来事はすべて、この原則が当事者間で押さえられていないことに端を発しているような気がしてならない。

 ブレイクとは馬鹿に見つかることだ、と表現したのは有吉弘行だったか、非常に的を射ていると感じるし、彼はことばによる表現センスが数多の芸人のなかでも抜きんでていると思う。すなわち、このことばを借りるならば、同人界にとって、ブレイクすることはむしろ、マイナスの面ばかり出てくる。いわゆる「馬鹿」ほど本質を無神経に掬い取ってしまうし、無遠慮に直視してしまう。馬鹿ではないぼくたちですら、ときとしてあっけなく創作者を傷つけてしまうというのに、かれらはぼくたちの何倍もの質と量で優れた創作者に無意識に牙をむく。だからぼくたちはできるだけ、馬鹿に見つからないように生きていかなくてはならないのである。

 直面した、もしくは垣間見たそのショックな出来事について、ぼくはいずれも当事者を名乗れないほどに遠い。だからそれについて語ることはできないが、このもやもやを解き明かしたいという思いでいろいろ考えた。その末に出てきたのが上記の考えである。

 もっと広い世界に、優れた作品を知らしめていきたいという思いはあるけれど、それが本当にぼくが望んでいることなのか、今一度慎重に考えてみるべきだと思ったし、そこが固まったとき、ぼくは同人イベントを手掛けてみたいと考えている。それが来年なのか、5年先なのか、それとも永遠に来ないのかは、ぼくもわからない。

 とにかく、この1か月は激動だった。そして、創作モチベーションの安定を揺るがしかねない危機的な状況も目にした。少し創作から離れるか、むしろ小説を書くことだけに集中すべきか、ぼく自身も決めあぐねている。

 ぼくは何かを表現するのに値するのだろうか、ということを常に考えさせられているし、しかしながら憎たらしい社会に抵抗するためにこの活動を行っている以上は、その表現に価値があろうがなかろうがぼくは戦い続けなくてはならないとも考えていて、そのゆらぎから脱することができない。

 ぼくは「小説」を書きたい。ただたんなる読みものや物語ではなくて、「小説」を書きたいのだ、というのがここ最近の想いで、そうあれるようになりたい、と切に、切に思った。

 まだまだ、書き手として生きていきたい、と思う。

 

 

 蛇足。読み手としてのぼくは、たぶん物語が一番好きだ、と思う。小説による形での物語、が一番フィットするのだろう。シーズンレースで上位になるのは、そんな作品ばかりだ。