ひざのうらはやおのメモ帳

サイコパスクソメガネが祈る墓標みたいなやつ

他人がなんと言おうとぼくにとってそれは「いのち」だった

 どうも、ひざのうらはやおです。

 

 シーズンレースを書く予定だったんだけれど、はっきりいってそんな場合ではなくなったので、思ったことを書きたい。

 

 今朝、飼っていたハムスターが死んだ。20か月。ゴールデンにしてはまあ、普通よりちょっと短いくらいだろうか。

 医者曰く、12か月を超えてくるとハムスターは腫瘍ができやすくなるらしい。人間も40~50代くらいでがんと診断される人結構いるもんなあ、と思った。そういう意味ではその死はありふれていて、多くの統計的なデータのうちのひとつに組み込まれてしまうようなたぐいのものなのかもしれない。

 前飼っていたものと同じくらいの涙を流しただろうか。出張前に看取れてよかったのだろうか。深く考えるも答えは出ない。今これを書いている横でケージを噛んでいるような気がしてくるくらい、その死は身近ではない。しかし、そんな音はしない。

 彼女の容体が急変したのは昨日のことだった。たまたま近所にハムスターを見れる病院があったので、診療時間外に急患で駆け込んだ。そのとき打って貰ったステロイド剤のおかげで、ぼくは朝、まだ生きている彼女を見ることが出来たのだろうと思う。

 

 同じ昨日のことだった。1か月くらいプレイしていた「NierR:Automata」のだいたいのシナリオと隠し要素を遊んで、そのDLCエンディングを見た。なぜ今の今やっているかというとそれはGWの時にダウンロード版が安かったので、以外の理由がないわけであるが、評判通りのクオリティだったと感じるし、何よりおどろいたのは、このDLCエンディングの楽曲「命にふさわしい」が、非常にぼくの心を撃ちぬいたことだった。amazarashiというアーティストは実は聞いたことがなかったのだが、これ以外の作品も聞いてみて、むしろ今までなぜぼくは触れなかったのだろうと思うくらい、すべてがぼくの心に強く強く突き刺さった。ボーカルとリリックの存在感たるや。これを最大限に生かした曲作りをしているところも非常に心を打った。

 

 で、こんなことが立て続けにおこったので、「いのち」とは何だろうか、と深く考え込む羽目になった。おかげで今日の出張は何をしていたのか思い出せない。

 

 なかなか結論はでない。生物なら「いのち」かというと、そういうわけでもない。例えば風呂場に居残るカビや、下水道から湧いてくるゴキブリやドブネズミを「いのち」とはちょっと思いにくいし、無限に生えてくる雑草も、連想はするけれどもそれひとつひとつを「いのち」とはなかなか認識しがたい。それに、無生物にだって「いのち」を感じることはある。ぼくはツイッターのアカウントが消えると「死んでいるな」と思うし、これを書いているパソコンが急にうごかなくなってしまったら、ハムスターの死と同じくらいには悲しむ。間違いなく泣くだろう。それは「いのち」であると認識しているからに他ならないのではないだろうか。

 ここまで考えて、はたと気づいた。ぼくの考える「いのち」の定義は、割としっかりしている。すなわち、「他と識別できる個体であるかどうか」だ。もっと言うと、そこに「個」を感じるかどうか、というところになる。

 前述したゲームは、まさにこの「いのち」とは何かという問いを極限まで突き詰め続けた作品であるように感じた。タイアップ曲のタイトルが「命にふさわしい」なんてものになるくらい、それは徹底している。人類が作り出したアンドロイド、それに類する生命体が作り出した機械生命体というこの二者が交錯し、互いに憎みあいながら、鏡あわせに対比されそして溶け合っていくという構図がそれを際立たせている。かれらは、どちらも同じ身体を無限に持ちながらも、生死の別を意識的に理解していて、それが物語そのものの鍵であり、いわゆる「ネタ」の部分でもあるわけだが、かれらが、まさしく人間と同じような思考プロセスを会得していく、もしくはしているさま、そしてそれらがさらに支援機にまで波及していくさまは、まさに「いのち」とは生物のみに宿るものではないという表現ではないかと思う。

 ぼくにとって、それはやはり「個」を感じるかどうかで決定する。同じ型番のパソコンがいくつも並んでいる電器屋でそれを感じることはないが、持ち帰って自分のツールとして使用すると、それを感じるようになるというのが一番わかりやすい例だろう。だから、前述のゲーム内でのキャラクターはそれらがプログラムされたアンドロイドであったとしても、それを滅ぼすために作られた機械生命体だったとしても、それが「個」であると認識できる以上は「いのち」とぼくの中では定義づけられる。

 逆に、人間であっても、たとえば今年自殺した人、といったような、数の中のもの、として考えるうえでは、ぼくは「いのち」を感じない。だからいまだに「アフリカで救える命がある」というCMには首をかしげる。まあ、もっともあれはそうであったとしても目の前にいる日本人はきっと救えないから無視をしているんだろうなと思ってしまうのですごくなんというか悲しい気持ちになってしまうから好きではないのだが。

 そう感じるから、ぼくはきっと名前を付けることにこだわるし、ありふれた名前とそうじゃない名前を極端に区別するのだろうなと自己分析した。名前をつけるというのは、ぼくのなかで「個」を認識する第一段階なのではなかろうかと思うわけである。

 だから、ハムスターの「すなこ」も間違いなく「いのち」だったし、そしてぼくがさらに思ったのは、「かれ」もやはり、ぼくの中では「いのち」だったのだ。

 しかし、それはあくまでぼくが思う「いのち」の定義であり、他の人がそうであるかどうかというのは、その人の意識にたどりつかないかぎり、わかりようがない。

 ここまで書いてわかる通り、ことばというものは本来主観的な概念から脱却することができない。ぼくはこの記事を日本語で書いているつもりだが、ぼくの書いた日本語が、ぼくの書いた通りに読める可能性は極めて低いだろう。もちろん、努めてその可能性を上げることに腐心しているつもりではあるのだが。そして、そういうスタンスであるからこそ、ぼくの書く小説にはおそらく「引っ掛かり」が非常に少ないのではないかと思う。可読性を上げれば上げるほど、ぼくの文体は意識されなくなり、ぼくの小説は記憶されなくなる。それはまるで、ぼく自身を見ているかのような気味悪さを感じることがある。ぼくの仕事というのもおおかたそんな感じである。ぼくの名前が残っている手柄、のようなものは、おそらく学生時代から通算してみても、ひとつもないだろう。当のぼくが覚えていないのだから。しかし、ぼくがいなくなったあとの職場は問題なく回っているし、ぼくだけが認識していた問題はたいてい誰にも認識されていないか、誰もが認識しているかのどちらかになっている。つまり、ぼくの仕事の実績というのはそういった部分にあるわけだが、これを履歴書に書けるか、というと難しい。その仕事場の環境を知らなければ、ぼくの仕事を理解することそのものが、おそらくできないからだ。評価や判断というものが、その主観性を脱することができない以上、ぼくのような人間は他者に自己の存在、あるいはそれに類する何かを「表現」しなくてはならない。その表現こそが、ぼくらをぼくらたらしめていて、ぼくらに「いのち」を吹き込んでいるのかもしれない。

 

 結局ぼくらは、自分以外の他者に対して、どう「いのち」を吹き込んでいくのか、ということの連続で生きていて、どれだけの存在に「いのち」を宿すことが出来るか、のようなものが、人生に問われていくような気がしてならない。どこかで読んだので妄想かもしれないが、「人生とは何をどのように他者に与えたか」であるとだれかが言っていた。ぼくは上記のように考えて、そういうことか、となんとなく腑に落ちた。だから、ぼくのからだを持つ男が死のうとも、ひざのうらはやおはその小説が物質あるいは電磁的データとして存在する以上は生き続けるし、さらにいえば、「かれ」は記憶にあるかぎりぼくの中で生き続けているのだ。

 

 誰が何と言おうと、これはそういうことなんだとぼくは信じようと思う。

 そのためにぼくは書かなくてはならないし、書いていくのだ。