ひざのうらはやおのメモ帳

サイコパスクソメガネが祈る墓標みたいなやつ

散っていった遺骨に黙とうを

 どうも、ひざのうらはやおです。

 ずいぶん時間が空いてしまった。この作品にたいして、ぼくは評をすることが難しい状況にあったからである。何も、この作品だけのはなしではなく、すべてのコンテンツに対してまともに何かをコメントできる状況になかった。

 さて、言い訳はともかく、こうして戻ってきたからには、ふたたび始めなくてはならない。

 

 THE BACK HORNの曲に「レクイエム」というものがある。大げさに退廃的な歌詞が好きで、よく聞いている。このバンドの方向性をがっつりと足固めしたような曲だ。

 

「input selector ISSUE:Late2007」編:言葉の工房

文体:30 空間:30 (半客観分野:60)

感覚:34 GF:31 (主観分野:65)

闇度:0.496 レート:0.386

総合:125.110(静岡文学マルシェ2シーズン3位

 

 静岡文学マルシェを主催している、添嶋譲氏のサークル「言葉の工房」の編集した合同誌である。一般的な文芸誌のような手に取りやすい装丁で、主催の作品ということもあり手に取った。

 寄稿者はぼくの知っているひとから名前も知らないひとまで様々。読んでいても、その文体に様々な表情があったり、書き手が同じであっても演出によってここまで色が異なってくるのだ、と思い知らされたり、装丁からはむしろ想像がつかないくらいの濃い同人誌であった。

 それだけに、面白いもの、そうでもないもの、なにかひっかかりを感じさせるものなどいろいろあるわけだが、最も印象的だったのは雲鳴遊乃実氏の「破壊神へのラブ・ソング」であった。マクラ曲に選定したものは、この作品の雰囲気に引きずられている。「破壊神へのラブ・ソング」は、主人公が死に、(主観における)世界が滅びていくまでの情景を、主人公自身の心情や過去の記憶などを巧く織り交ぜながら非常に生々しく、赤裸々に、美しく描いている短編だ。極めて雑にいってしまえば、「セカイ系」の亜種のような舞台設定なのであるが、その独白の心地よさが端的に言って非常にすっと入っていけるようになっていて、おそらくぼくと氏はどこか通ずるものがあるのだろうな、と思った。

 実は、雲鳴氏はぼくの作品をいくつか読んでいただいていて、その感想を記していただいている。特に、最近著「平成バッドエンド」に対する評において、

どの小説、エッセイも、僕は素直に受け止めることができた。

年代や居住地などは意識する必要もなく、ごく率直な感想として、氏にはちかしい印象を抱いていた。

byebyecloud.hatenablog.com

 と語っている。氏の「破壊神へのラブ・ソング」を読んで、ぼくも似たような感触を得たので、今後氏の作品をいくつか読むことになるのだが、おそらくはどこか似ていて、それでいて全く違う景色が広がっているのではないかと期待している。

 

 この合同誌は小説以外にも、短歌やイラストとの融合など、文芸という枠の中でも多様な作品集となっていて、非常に読みごたえがあった。125点というのは、合同誌としては非常に高い評点で、本ステージのシーズンレースとしては、現在「N.G.T ナンバーガールトリビュート」「常世辺に帰す」に次いで評点の高い合同誌となっている。静岡文学マルシェは第3回も盛況のうちに幕を閉じたとのことだが、その後でもこの作品集のような、シンプルでかつ同人誌と呼べるような意欲的なものが出ていくような世界であってほしいと、ぼくは切に願う。

 

 2位となったものも、様々な感情が入り混じっているので、しばらく時間がかかるものと思われる。

 できれば、期待をしないで、待っていてほしい。

眼前の世界は自分にしか見えていないし、それがほかのひとに見えることはない

 どうもひざのうらはやおです。

 

 同人活動をしていたときにたまに聞かれてそのたびになんだかなあと思うことがある。「あなたが低評価をつけたものを書いた人の気持ちを考えたことがありますか?」みたいな質問が、まあ年に1,2回くらいの頻度で聞かれるので、おそらくそこそこ多くの人がそんなことを考えているのだろうと思う。

 はっきり書くが、そもそもぼくに向かってそんなことを質問する人間とはそもそも思想からして全く合わないと思うので、ブロックするなりミュートするなりして関わらないことをお勧めする。もっとも、そういう人間はこのメモ帳を読みはしない。ツイッターでいけすかないツイートをしているぼくがたまたま目に入ったとかおおかたそんなところだろうとは思う。つまり何が言いたいかというと以下の通りめちゃくちゃ考えているので非常に不愉快であるということが言いたい。

 次質問したらアイスピックだからな。

 で、質問に答えると、「死ぬほど考えているつもり」である。そもそも上位しか紹介しないのは、手間と時間がかかり有効に同人誌を読み進められなくなるからだし、まとめの評点を公開しないのも下位に相当する作品を明言しないためである。いかにこれがぼくの主観的な評価であるとはいえ、目に見える形で低評価を残すのはいかがなものか、ということは常々考えている。しかし、高評価だったものに関してはぼくはもっと多くの人に知ってもらいたいと思っているわけだ。ここに待遇の差別化が生まれる。

 そもそもぼくが下した評価について、それが高評価だろうが、そうでなかろうが、受け止めるか受け止めないかまで含めて誰だって自由なのである。ぼくが自由に読んだものを比較するのも自由だし、あなたはそれを読んでも、読まなくてもいい。ただ、あなたが読んで思った感想についてぼくは求めていないし、あまつさえそれに対するいかなる対応についても応じる義務も義理もない。これはそういう話だ。

 そもそも、自分の評価軸すら持てないひとがなぜ多くの人間に自分の創作物を見てもらいたいと思うのかがぼくには理解しがたいところではあるが、それについては実際にそういうひともそれなりの数見てきているし、かれらを安易に否定すべきでもないとは思っている。もっと軽い気持ちでものを創ればいい、とポジショントークとしてはぼくも言うことがある。これもそういう話だ。

 

 くだらない話に1000字近く使ってしまった。

 本来はこの後に静マルシーズン3位となる作品の紹介をしようと思ったが、さすがに失礼すぎるのでまたの機会にする。

他人がなんと言おうとぼくにとってそれは「いのち」だった

 どうも、ひざのうらはやおです。

 

 シーズンレースを書く予定だったんだけれど、はっきりいってそんな場合ではなくなったので、思ったことを書きたい。

 

 今朝、飼っていたハムスターが死んだ。20か月。ゴールデンにしてはまあ、普通よりちょっと短いくらいだろうか。

 医者曰く、12か月を超えてくるとハムスターは腫瘍ができやすくなるらしい。人間も40~50代くらいでがんと診断される人結構いるもんなあ、と思った。そういう意味ではその死はありふれていて、多くの統計的なデータのうちのひとつに組み込まれてしまうようなたぐいのものなのかもしれない。

 前飼っていたものと同じくらいの涙を流しただろうか。出張前に看取れてよかったのだろうか。深く考えるも答えは出ない。今これを書いている横でケージを噛んでいるような気がしてくるくらい、その死は身近ではない。しかし、そんな音はしない。

 彼女の容体が急変したのは昨日のことだった。たまたま近所にハムスターを見れる病院があったので、診療時間外に急患で駆け込んだ。そのとき打って貰ったステロイド剤のおかげで、ぼくは朝、まだ生きている彼女を見ることが出来たのだろうと思う。

 

 同じ昨日のことだった。1か月くらいプレイしていた「NierR:Automata」のだいたいのシナリオと隠し要素を遊んで、そのDLCエンディングを見た。なぜ今の今やっているかというとそれはGWの時にダウンロード版が安かったので、以外の理由がないわけであるが、評判通りのクオリティだったと感じるし、何よりおどろいたのは、このDLCエンディングの楽曲「命にふさわしい」が、非常にぼくの心を撃ちぬいたことだった。amazarashiというアーティストは実は聞いたことがなかったのだが、これ以外の作品も聞いてみて、むしろ今までなぜぼくは触れなかったのだろうと思うくらい、すべてがぼくの心に強く強く突き刺さった。ボーカルとリリックの存在感たるや。これを最大限に生かした曲作りをしているところも非常に心を打った。

 

 で、こんなことが立て続けにおこったので、「いのち」とは何だろうか、と深く考え込む羽目になった。おかげで今日の出張は何をしていたのか思い出せない。

 

 なかなか結論はでない。生物なら「いのち」かというと、そういうわけでもない。例えば風呂場に居残るカビや、下水道から湧いてくるゴキブリやドブネズミを「いのち」とはちょっと思いにくいし、無限に生えてくる雑草も、連想はするけれどもそれひとつひとつを「いのち」とはなかなか認識しがたい。それに、無生物にだって「いのち」を感じることはある。ぼくはツイッターのアカウントが消えると「死んでいるな」と思うし、これを書いているパソコンが急にうごかなくなってしまったら、ハムスターの死と同じくらいには悲しむ。間違いなく泣くだろう。それは「いのち」であると認識しているからに他ならないのではないだろうか。

 ここまで考えて、はたと気づいた。ぼくの考える「いのち」の定義は、割としっかりしている。すなわち、「他と識別できる個体であるかどうか」だ。もっと言うと、そこに「個」を感じるかどうか、というところになる。

 前述したゲームは、まさにこの「いのち」とは何かという問いを極限まで突き詰め続けた作品であるように感じた。タイアップ曲のタイトルが「命にふさわしい」なんてものになるくらい、それは徹底している。人類が作り出したアンドロイド、それに類する生命体が作り出した機械生命体というこの二者が交錯し、互いに憎みあいながら、鏡あわせに対比されそして溶け合っていくという構図がそれを際立たせている。かれらは、どちらも同じ身体を無限に持ちながらも、生死の別を意識的に理解していて、それが物語そのものの鍵であり、いわゆる「ネタ」の部分でもあるわけだが、かれらが、まさしく人間と同じような思考プロセスを会得していく、もしくはしているさま、そしてそれらがさらに支援機にまで波及していくさまは、まさに「いのち」とは生物のみに宿るものではないという表現ではないかと思う。

 ぼくにとって、それはやはり「個」を感じるかどうかで決定する。同じ型番のパソコンがいくつも並んでいる電器屋でそれを感じることはないが、持ち帰って自分のツールとして使用すると、それを感じるようになるというのが一番わかりやすい例だろう。だから、前述のゲーム内でのキャラクターはそれらがプログラムされたアンドロイドであったとしても、それを滅ぼすために作られた機械生命体だったとしても、それが「個」であると認識できる以上は「いのち」とぼくの中では定義づけられる。

 逆に、人間であっても、たとえば今年自殺した人、といったような、数の中のもの、として考えるうえでは、ぼくは「いのち」を感じない。だからいまだに「アフリカで救える命がある」というCMには首をかしげる。まあ、もっともあれはそうであったとしても目の前にいる日本人はきっと救えないから無視をしているんだろうなと思ってしまうのですごくなんというか悲しい気持ちになってしまうから好きではないのだが。

 そう感じるから、ぼくはきっと名前を付けることにこだわるし、ありふれた名前とそうじゃない名前を極端に区別するのだろうなと自己分析した。名前をつけるというのは、ぼくのなかで「個」を認識する第一段階なのではなかろうかと思うわけである。

 だから、ハムスターの「すなこ」も間違いなく「いのち」だったし、そしてぼくがさらに思ったのは、「かれ」もやはり、ぼくの中では「いのち」だったのだ。

 しかし、それはあくまでぼくが思う「いのち」の定義であり、他の人がそうであるかどうかというのは、その人の意識にたどりつかないかぎり、わかりようがない。

 ここまで書いてわかる通り、ことばというものは本来主観的な概念から脱却することができない。ぼくはこの記事を日本語で書いているつもりだが、ぼくの書いた日本語が、ぼくの書いた通りに読める可能性は極めて低いだろう。もちろん、努めてその可能性を上げることに腐心しているつもりではあるのだが。そして、そういうスタンスであるからこそ、ぼくの書く小説にはおそらく「引っ掛かり」が非常に少ないのではないかと思う。可読性を上げれば上げるほど、ぼくの文体は意識されなくなり、ぼくの小説は記憶されなくなる。それはまるで、ぼく自身を見ているかのような気味悪さを感じることがある。ぼくの仕事というのもおおかたそんな感じである。ぼくの名前が残っている手柄、のようなものは、おそらく学生時代から通算してみても、ひとつもないだろう。当のぼくが覚えていないのだから。しかし、ぼくがいなくなったあとの職場は問題なく回っているし、ぼくだけが認識していた問題はたいてい誰にも認識されていないか、誰もが認識しているかのどちらかになっている。つまり、ぼくの仕事の実績というのはそういった部分にあるわけだが、これを履歴書に書けるか、というと難しい。その仕事場の環境を知らなければ、ぼくの仕事を理解することそのものが、おそらくできないからだ。評価や判断というものが、その主観性を脱することができない以上、ぼくのような人間は他者に自己の存在、あるいはそれに類する何かを「表現」しなくてはならない。その表現こそが、ぼくらをぼくらたらしめていて、ぼくらに「いのち」を吹き込んでいるのかもしれない。

 

 結局ぼくらは、自分以外の他者に対して、どう「いのち」を吹き込んでいくのか、ということの連続で生きていて、どれだけの存在に「いのち」を宿すことが出来るか、のようなものが、人生に問われていくような気がしてならない。どこかで読んだので妄想かもしれないが、「人生とは何をどのように他者に与えたか」であるとだれかが言っていた。ぼくは上記のように考えて、そういうことか、となんとなく腑に落ちた。だから、ぼくのからだを持つ男が死のうとも、ひざのうらはやおはその小説が物質あるいは電磁的データとして存在する以上は生き続けるし、さらにいえば、「かれ」は記憶にあるかぎりぼくの中で生き続けているのだ。

 

 誰が何と言おうと、これはそういうことなんだとぼくは信じようと思う。

 そのためにぼくは書かなくてはならないし、書いていくのだ。

 

 

遠い世界の出来事をすぐそこにあるみたいに考えられるその想像力を社会に活かせ

 どうもひざのうらはやおです。

 考えてみれば、この挨拶でシーズンレースの記事を書くことになるとは思わなかった。

 

 椎名林檎の曲はだいたいあんまり好きじゃないので、強いていうなら「丸の内サディスティック」だけはいろいろな思い入れがあってなぜか狂ったように聞いてしまう。一種の自傷行為みたいな。

 マクラ曲とかいらねえから。

 

 静マルシーズンに入ったのは文フリ広島の頃だったので、4か月くらいかかった。かなり長い。お待たせしました。

 まずは、惜しくも選外になってしまったみなさんから。

 

「平成五年のメタモルフォーゼ」著:本目詩水 天ノ川聲音

 平成五年生まれというふたりがユニットを組んで出した本。というまさにそのままの作品集。同年代の人間が紡ぐゴリゴリの純文学でありながら、ゼロ年代の空気を纏っているというのが鮮烈であった。ふたりともぼくには書けないみずみずしさがありながら、確固たる軸が見えているというのがとても印象的。

 

「埃をかぶった幻」著:烏兎緩々

 とある文芸サークルで起きた、謎を解き明かしてくミステリー風味の短編。小気味よい展開が、読む手を止めさせない。それだけにオチのまとまりはとても納得であった。表紙も小説にすごくマッチしている。読み終わってからもう一度表紙を見てみよう。

 

「普通の矜持」著:森村直也(HPJ制作工房)

 前日の打ち上げでなぜか記憶に残っていた森村さんからひとつ買わせていただいた。短い文章にこれでもかというほと情報を載せられていて、密度というものの奥深さを思い知った。SF的でパラレルワールドのような不思議な世界観だが、主人公の「製品」としての有能さと、それをそれとして描かないところにむしろ矜持を感じた。

 

「崩れる本棚 7.0」著:ウサギノヴィッチ ほか(崩れる本棚)(レート:1.224)

 そにっくなーす氏の作品がきになって手に入れた。古き良き(?)文芸よろず本のような印象を受けた。自由で、それでいてどこか同じ方向を向いているような。味わい深い。

 

零点振動」著:宇野寧湖(新天使出版会)(レート:5.92)

 以前テキレボかどこかで買った記憶があるのだが、その時は1巻だけだったのでその続きを手に入れてみた。完結しているかどうかが微妙にわからない(たぶん、まだ続くのではないかと思っている)ので、ここまででひとくぎりとしてコメントする。

 主人公の女性がかなり魅力的。宇野さんの書く女性は好きだなあと思う反面、おそらく氏がより力を込めていそうな男性キャラクターの印象が残っていないのはなぜだろうな、とつくづく考える。ぼくが男だからなのかもしれない。洋ドラ風味な展開と雰囲気ですらすらと入っていく。そういうものがお好きな方はぜひ。

 

「凱歌」著:凪野基(灰青)(レート:6.427)

 おはなし職人の放つハードハイファンタジー長編。緻密に物語を作り上げる氏が長編を作り込むとこうなるのか、というすさまじい密度と、情け容赦のない展開。読み応え抜群である。特に後半、怒涛で息をもつかせない、それでいて容赦がない展開が続く。それだけに最後の清々しさが救いになる。ここまで読んできた中でもトップクラスの緻密さを誇るといえる。ハードなファンタジーが好きな方はマストである。

 

「ゲンシ」著:遠藤ヒツジ(羊目舎)(レート:6.038)

 不思議な雰囲気を漂わせる、氏の夢現が入り混じるような作風の短編が詰まった作品集。とくに2つめの「体はあなたのもとに」がとても好き。淡々と非日常を描いていき、その上に登場人物の感情を塗りかさねていくのが、氏の作風なのかもしれないと思った。おすすめの一冊。

 

「僕の真摯な魔女」著:まるた曜子(博物館リューボフィ)(レート:5.920)

 氏の作品で最初に読んだ「野をゆくは魔女と景狼」と同じ魔女シリーズ。シリーズに共通する魔女という存在の設定を活かした物語に、こちらもなっている。この魔女の設定がとても好きである。恋愛と性愛、そしてそれらと繁殖が別個の感情もしくは本能として身体にプログラミングされているというのが惹かれるポイントなのかもしれない。氏の文体は渓流のように、静寂なようでいて強いエネルギーを持ち、しかも同じ方向に流れ続ける、そんなもののように思える。

 

 選外作品は以上。今回は高レートの書き手が多く、評点も実は非常に荒れた。5位までが120を超えている。ぼくの中では120が、「いい作品」と「すごくいい作品」を分けるボーダーであるように感じていて、120以上が記事化の対象だろうというイメージで評点化をしているのだが、今回は、とくに3位争いが非常に激しかった。

 3位の作品は、静マルシーズンの中でも期待をもって読んだ作品である。ぼくはこれを記事として紹介できてよかったと感じるような、そんな作品だ。

 こうご期待。

戻るつもりがないのにパンくずなんか置けるわけがない

 どうも、ひざのうらはやおです。

 

 例によって例のごとく、これも何らかのリハビリ。

 

 今回は細切れに、思ったことを淡々とまとめていく形式にしたい。今まで以上にまとまりがないが、オムニバスみたいなものだと思ってほしい。

 

 ぼくは継続的に記録をとるということを極端に嫌う。おそらくADHDとして生理的に受け付けないところがあるのと、ぼくの記憶そのものがかなり恣意的に形成されているという自覚がはっきりとあるせいなところがある。

 つまり、下手に記録を取ってしまうと、ぼくの「記憶」と整合性がとれなくなってしまうのだ。ぼくはぼくに対しはっきりと嘘をつくし、それをぼく自身の手によって暴かれるのを最も嫌う。ということに最近気づいた。なかなかに業を背負っているような気がしなくもない。ぼくが他人につく嘘に対して全く心が痛まないのは、そもそもぼくはぼく自身に対してあまりにも多すぎる嘘をつき続けているからなのだろう。

 本当のことを言わない技術に関しては、少なくとも同世代の人間のなかでは抜きんでているように思うし、それが少なからず創作に出ているように思う。

 

 首都圏(関東地方+山梨県)のサンマルクカフェの店舗をひとつずつしらみつぶしに訪れるというサンマルクチャレンジを自分に課してからもうすぐ10か月になる。客観的に表現すれば趣味以外のなにものでもないし、だからぼくは他人には趣味という形で(上述した通り)平然と嘘をつく。ただぼくはこれを趣味とはあまり考えていない。だいいち全然面白くない。サンマルクカフェはコーヒーチェーンだ。当然どの店舗もほぼ同じラインナップだし、内装だし、なんなら立地だってほとんど同じだ。一種のお遍路のようなものである。それはまさしく巡礼だ。サンマルクカフェの神があの夏の日、突然「かれ」に囁いたのだ。「とりあえず、サンマルクカフェを巡るのなんか面白そうだからやってよ」と。「かれ」も面白そうだと思ったのだろう、気が付いたらぼくは青春18きっぷを手にして中央線に乗っていた。中央線沿線はサンマルクカフェの店舗がかなり多い。

 ただ、この時ぼく、というか「かれ」は深く考えていなかったのだろう。サンマルクカフェの立地方針は非常に徹底していて、それは「かれ」の想定外だったのだろうと思う。つまるところ、郊外、もっと言ってしまうと片田舎のイオンモールにかなりの数分布しているということに、初めて数日で気づいた。イオンモールである。大貧民負けてマジ切れ、パスタ作ったお前に一目ぼれみたいな方々が家族の絆を密にして休日になると足しげく通うであろう、片田舎の総合歓楽施設であるところの、あのイオンモールである。最大の欠点が、駅から遠い。そしてぼくは自動車の運転が決してうまくないうえに、ぼくどころか家族誰も自動車を所持していない。浦安で車を持っていても金がかかるだけなのである。

 それでようやく、昨日の話になるのだが、群馬県の、それでも入り口に近い都市に行くのだって、電車を何回も乗り継いでいく必要があった。具体的に言うと太田と伊勢崎で、どちらも東武鉄道がカバーしているし、なんと太田までは特急が通っているといので、東武特急は特急料金がそれほど高くないから興味があってついでに乗ってみることにした。JR東海道線のグリーン車と比較してしまうのは車両的にあまりにもかわいそうなのでしないでおくが、まあ料金としては妥当だし、レトロな車両にしてはかなりスピードも出るしとてもよかった。ただ例えばデートに使うかというとなかなか微妙である。もっともぼくはかなりの見栄っ張りなのであるが。お察し。

 しかし、延々と東武伊勢崎線を、北千住から先を乗りとおしたわけであるが、やっぱり景色の移り変わりを見るのが楽しい。北越谷から複々線が複線に変わり、舘林から単線に変わり、それでも太田につくころにはいつのまにか高架になっているし、伊勢崎にはちゃんと車止めがあるのもなんだか少し感慨深かった。

 また、利用客が思っていた以上に多いことにも驚いた。あと、ぼくと同じような経路でイオンモールに行くのは、小中学生かもしくは後期高齢者のようなひとばっかりで、車中がすごく極端な年齢層になっている中、アラサーと呼ばれる年齢層のぼくは非常に浮いていた。おそらく、ぼくと同年代の人間はみんな家族を引き連れて自動車で乗り付けるというのがスタンダードなのだろう。そりゃそうだ。買い物にいくわけだし、駅からは遠すぎる。スマーク伊勢崎なんかちょうどバスがない空白時間に着地してしまい、やむなくタクシーを使ったのだが、2000円近くかかった。距離にしておそらく4キロ前後といったところだろう。歩けば1時間かかる。

 たかだかスマーク伊勢崎のサンマルクカフェに行くためだけにタクシーに2000円使うのはもうなんというか独身男性の極みみたいな行動だが、ぼくの時間外の時給はおおよそ2000円程度であることを考えると、歩いて1時間かけるのとまあどっこいどっこいで、体力を消耗しないだけマシだなと思ったし、事実ここで1時間かけると北千住のサンマルクカフェをつぶすことが不可能になってしまっていたので、必要経費となるのは明白だ。ただいくら必要経費だからといってぼくの財布が痛まないはずがない。というか、実際めちゃくちゃ痛い。めちゃくちゃ痛いのだが、しかしすでにサンマルクカフェの飲食代だけで4万円にとどくであろう金額を使っている人間としてはもうなんというか、何をいまさらである。それに、おそらく今後タクシーを使うことはまずない……と思いたい。ぼくにとってサンマルクチャレンジは、修行であり、創作としての何かを取り戻すために必要な、「かれ」の遺したふたつの業のうちのひとつなのだから。

 

 もうひとつは、もちろんシーズンレースである。先日、というかまさにこの特急りょうもうの車中でぼくは静マル2シーズンに登録された最後の作品を読み終えた。静マル2シーズン、すなわち、昨年開催された「第2回静岡文学マルシェ」で得た作品群の評点化である。その最後に配置された作品に、ぼくは全身を殴られたような気分になった。その作品は、「ある規則に基づいて、短編を綴ったものをまとめた」短編集だった。書き手にその意図があったかどうかは不明であるが、ぼくが読む限りでは、それは極めて写実的な創作的記録であるかのように思えた。そこに並んでいた作品群のひとつひとつが、ぼくにとっては極めて強い殴打であるかのように感じた。

 上述したとおり、ぼくは記録をとることが不得手であり、そもそもするモチベーションがない。けれどそれは自らにとって都合の良い記憶を創り出すためにあえてやっていることであった。実際、ぼくは5年以上の長期的な関係を、血縁関係を除いた特定の個人と結んだ記憶はない。今知り合っている人は5年前には知り合っていなかったし、逆に5年前に知り合った人間で今も継続的にコミュニケーションをし、密接なかかわりを築いている者はだれひとりいない。

 だから、これほどまでに精緻に、記憶と記録をすり合わせるかのように丁寧に、何かを祈るように描かれていたそれらを見て、ぼくは本当に声が詰まった。かれの作品は、とかく文体、特に風景描写に関して極めて精度が高い。それだけに、場としての重みがありありと伝わってきて、読み終わった後も太田につくまで何もできなかった。

 その作品は、シーズン2位となっているので、後々記事としてしっかり書かせていただくつもりである。乞うご期待。

 

 上述した中で、じつはひとつだけ例外があることに気づいた。ただ説明するのが面倒なのと、プライバシーにかかわることなので割愛する。お察し。

 

 最近性的な夢をよく見る。いわゆる淫夢みたいな、自分の欲望がストレートに表現されているものであれば、まだあきらめもつくというか、納得もできるのだが、なんだか女性からセクハラされるみたいな、とにかくぼく自身にとって極めて不快なものばかりで、すくなくともぼくの願望では決してない、と断言したいような内容のものばかりだ。これもプライバシーにかかわること、またこのブログの読み手に当事者がいないとも限らないので割愛する。

 

 エッセイを出した時に、2つの文体をぼくは使い分けた。ひとつは、あからさまに虚構を押し出したような、いわばラジオパーソナリティ的な語り口を非常に意識したもの、これは「まんまるびより」の主要構成となっている。もうひとつは、それを極端に排した、このブログのような文体で、実のところこちらの方が脚色が多いのだが、そう思わせないために技巧のほぼすべてをこらしたようなもので、こちらが「しん・まんまるびより」にあたる。エッセイを書くことによって、人となりが漏れ伝わってしまうのではないか、とぼくのツイッターのあるフォロワーがつぶやいていた。もちろん、伝わるだろう。けれどそれは表現を行えば当然伝わるであろうことが伝わるだけの話で、かれがどういうエッセイを書くのかぼくにはわからないが、極端に状況や人物を限定しなければ誰かしらからそしりを受ける筋合いにないのではないかと思っている。ぼくはかつて、ある女性に、その女性について書かれた小説だけを集めた作品集を贈呈したことがある。もちろん、ここまでやってしまえばそれは何かしらの非難を受けるに違いない(実際今から思うと非常に気持ち悪い行為であったし、本当にどうしようもない人間だったなと後悔も反省もしている)けれど、そうでないのであれば、むしろ虚構でしっかりと構成されたエッセイに、さしたる同人的な魅力はないのではないかとぼくは思う。ありのままを書こうと思ってたぶんちょうどいいくらいなのだ。

 エッセイというところでいうと、伴美砂都氏のNoteの、本当に日記のような文章は非常に日常的で、それでいて心情表現が豊かで、さすがだなあと思っている。ぼくも「しん・まんまるびより」でそれを目指した。ありのままを、ありのままに書くには、当然であるがありのままではいけないわけである。その妙がするりと通り抜けているというか、全く意識せず書き手の視点と、それを取り巻いている環境が想像できてしまうというところ、そしてそれらが(書き手を知っているいないにかかわらず)ある程度人物像がぼんやりとおぼろげに浮かぶというところが本当に見事だし、伴氏の豊かで確かな文才がいかんなく表現されているので、機会があれば読んでみてほしいとぼくは思う。

 

 回線関係を整理して、ゲームする環境を整えた。実家からテレビがおさがりされたことが主な理由である。諸事情でネット回線のプロバイダを変更し、その解約手続きと、諸事情で必要になった中継器、HDMIのマルチタップなどなどもろもろ合わせると2万円くらいの出費であるが、うち1万円はキャンペーンのキャッシュバックで充当されるので、実質1万円の出費とみなせる。これで昨日と今日だけで2万円くらいの地味に痛い出費があったことになる。倹約できないタイプの人間なのは自覚しているので、できるだけ浪費しないようには心がけているのだが、なかなか難しいと思った。それでも去年は銀座に寄るごとに万年筆を買っていたから、まだそれよりはマシ。

 

 などと書き並べているが、来週には簿記の試験がある。それでいて、テキストを1回読んだくらいのことしかしていない。なにしろ覚えることが多すぎるのである。しかし職場には国立大学の経済学部を出ていることがバレているが、ぼくがADHDであることはバレていないので、簿記くらい簡単でしょ、むしろなんで今まで取らなかったんだよ、っていう空気が流れていて、到底実は一回受けて落ちているなんてことは言えないし、実際今回も合格する気がしない。ちなみに2級ではない、3級である。だから余計に厄介なのだ。理屈は簡単だけど、「え、なんでそんなめんどくさいことわざわざやるの?」と思ってしまってその先に進めないのである。学校の教科ではこんなことはありえなかったし、逆に資格試験となるとこうなってそこから先全く手につかないことがよくある。生まれて30年近く、ぼくは勉強がどちらかというと得意だと思っていたのだが、多分極めて苦手なのだろうと察した。言っちゃ悪いが3級は高校生が受けるようなものだ。そしてぼくは大学をすでに卒業している。しかもそこそこ名前が知られている国立大学の、経済学部。普通は不合格だったら相当手を抜いていたと思うに違いない。でも、はっきり言ってこれだけの、全然興味がわかない事柄を憶えられたためしがないのだ。室町時代鎌倉時代の歴代将軍の名前を憶えさせられているみたいで、全然頭に入ってこない。実はわりと焦っている。

 ま、落ちても減給とかじゃないから、別にいいんだけど。

 

 テキレボのことで物申そうかなとか思っていたけど、全然テンションがちがうだろうし、今これを書くのもなんだかなあと思うし、まず静マル2シーズンをどうにかしなくちゃなあと思うので、この辺でやめておきます。