おもちくんのメモ帳

球体の生物が日々感じたことをつぶやくよ!

浦安のはなし

 浦安という小さなまちがある。東京と市川に挟まれた、市域でいうと4キロ四方の小さなまちだ。千葉の西端にあるそのまちは、たいていその名を出すと「ああ、ディズニーランドの」と言われる。ぼくはそれがたまらなく悔しい。

 ぼくは浦安で育った。生まれた場所は全然違う。埼玉の東端、「らき☆すた」で話題になった鷲宮神社にほど近い産婦人科で生まれた。それから紆余曲折あって、浦安に引っ越してきた。仕事でお世話になっているから、今でも浦安から離れていなくて、もう20年以上の付き合いになる。

 このまちは不思議だ。震災時に報道されたからご存じの方もいるだろうが、大部分が埋め立て地で、もとは存在しなかった土地である。市域の7割以上が埋め立てのまちなんて、たぶんめったにないと思う。

 で、今でこそディズニーランドの印象が強い浦安であるが、もともとは豊富な海産資源と大都市の近傍であることを活かした漁村であった。だから小さなおすし屋さんがすごく多い。特に埋め立てではない「元町」と呼ばれる昔ながらの下町情緒あふれる街並みを歩いていると、今でこそだいぶ減ったものの、未だにかなりの数のおすし屋さんがあることに驚く。もちろん、そういった場所に入ったことはないのだが、今でも残る数少ない「漁村」としての痕跡だと勝手に思っている。

 浦安が現在の街に発展したきっかけは、もちろん漁業を捨てて埋め立てを行い、大都市近傍としてのポテンシャルを活かしたところにあるのだが、実はディズニーランドの誘致やリゾート住宅地造成だけでなく、京葉工業地域と京浜工業地帯の狭間で築かれた、日本最大級の鉄鋼加工基地があることが大きい。これがまちの下支えになっていることを知る人はあまり多くない。だからこそ、浦安というまちを語ることはとてもむずかしい。他のまち以上に、発展に際して様々な要素が複雑に絡み合っている。ディズニーランドの企業城下町のように語られることがあるのは、逆に言ってしまえば他のまちがそれほど複雑な事情を抱えていないということでもある。

 ぼくは浦安が好きでも、嫌いでもない。ただ、まちという属性においてとても興味がある。それは前述したようにとても複雑だからだ。だから、この先どういったまちになっていくのか、それもわからないのだろうと思う。

 浦安駅周辺、新浦安駅周辺、舞浜駅周辺を比べてみると、同じまちとは思えないほどその風景が異なっているのを目にすることが出来る。このまちは人工的にあらゆるものが配置されていて、それもまたシムシティ的な意味でおもしろい。

 

 というわけで、ぼくなりにこのまちを再解釈した世界観で、ひとつの小説群を形成してみた。それを今度の文学フリマ東京の新刊とするつもりだ。

 「煤煙~浦安八景~」は84頁の小さな短編集であるが、その8つの風景の作り込みにはぼくが浦安に対する様々な思いを全力でぶつけているつもりだ。

 もしお時間が許せば、11月25日(日)は東京流通センターで頒布しているので、ぜひ見に来て欲しい。浜松町駅からか、もしくは京急線天空橋駅からのモノレール利用が一番楽だろうと思う。1階、本部の真裏、D-02にて頒布しています。よろしく。

文学フリマのはなし

 今回は、ぼくが普段(というと、すこし語弊があるかもしれないけれど、恒常的に出ているという意味で)出ている「文フリ」こと、文学フリマについて、考えていることをつらつらと書き出していこうと思う。

 

 文学フリマとは、「己が文学と信ずるもの」を売る即売会形式のイベントだ。それは多くが同人誌と呼ばれるもので、その中でも小説中心のものが大半を占めている。文学と信ずるもの、という定義に則った結果そうなるのは当たり前のことであるが、漫画や音楽にも文学性があるし、事実頒布したとしても特に何も言われないはずである。もちろん、音楽であれば試聴環境として周辺に配慮したりしなくてはならないという意味では「フェア」ではないが、あってもいいなと思うし、事実、ちょこちょこ見かけるようになった。

 ぼくがなぜ文フリについて書こうと思ったかというと、先日の広報活動についてと同様、思ったことをそのまま書きたかったということと、ぼくが文フリについて書くことで、実は文フリのことをよく知らない層が遊びに来てくれるのではないかという一種のスケベ心からというのがその実態である。ぼくのツイッターのフォロワーや現実世界で交流のあるひとたちは、実は文フリからは縁遠いようなひとたちもかなりいる。文芸創作同人界隈にずぶりと入り込んでいったのはここ2,3年の話で、それまでは所属サークルの力だけで頒布を行っていたので、10年近くやっているツイッターの中でも界隈のフォロワーはどちらかというと新参なのである。そして、このブログはフォロワー以外のひとびとも気兼ねなく読むことが出来る。そういったひとたちが、少しでも多く文フリについて知ることが出来たらいいなと思うわけである。

 

 文フリ、実は様々な都市で行われている。文学フリマ百都市構想として掲げられるほど、その範囲は拡大し続けている。最も大きく、最初から行われているのが東京であるが、これ以外に、大阪、京都、福岡、金沢、岩手、札幌、前橋が行われ、来年2月には広島でも行われる。ぼくはここ2年で上記都市の文フリにすべて参加した。いわば全国制覇サークルのうちのひとつだ。もっとも、全国制覇した他のサークルはきっと巨大な規模を誇るものや、何百部も累積頒布部数があるようなベストセラー(小説本の世界では、50部でもかなりの売り上げだし、3ケタを出せる作品はかなり少ない)があるような新進気鋭のサークルばかりで、とくに取り立てたフラッグシップもなければ実績も薄い、いわば何の変哲もないようなサークルはきっとぼくのところくらいなのだろうと思う。

 ところで、サークルとは何か、同人をやらない人に軽く解説したい。ぼくのようにひとりでもサークルとして屋号ないしはそれに準ずるものを登録して即売会に参加することがほとんどであるが、これは、同人誌を売ることを「販売」ではなく「頒布」という文化と根本を同じくしている。すなわち、サークルのメンバーに実費相当分をもって作品を「分け与える」から「頒布」という言い方をするのだし、「同人誌」というのは狭義ではサークルの構成員でなくては手に入れることが出来ないものを指すのだ。一時的にサークルの構成員となる必要があるから、その実費相当分を負担しますよ、というのが同人誌を「もらう」という言い方に現れる。なぜそうなっているのかというと、その点は同人活動5年程度のぼくにはあまりよくわかっていないところが多いのだが、企業、つまり商業的活動とは目的を異にしているという部分からきているのだろうなと考えている。利潤追求をしてはいけない、というルールのもとで活動が行われており、だからこそ様々なグレーゾーンを潜り抜けてこられたのだろう、と概略から推測するとこんな感じである。だからおそらく正確でない部分がかなりあるが、その点はご容赦いただきたい。だから、たいていの書き手は「サークル」を持っている。それが複数人であろうが、個人であろうが、屋号のようなものとして持っておく必要があるのである。

 とはいえ、近年その意識が薄まっているように思う。かくいうぼくも、最初に文フリに登場したときは、「ひざのうらはやお」でサークル名を登録していた。いわばペンネームのみの屋号なしである。どちらにせよ、自分で綴ったものをブースを借りて、そこで手売りするのが即売会であり、文芸系が主力の即売会イベントで最大の規模を誇るのが文学フリマなのである。

 

 もう来週末になってしまったが、来る11月25日(日)には、東京流通センターにて「第二十七回文学フリマ東京」が開催される。これは過去の文学フリマの中でも最大といえる規模で、文芸系を中心としたサークルが1000前後集結するものだ。

 そのサークルで共通しているのは、「己が文学と信ずるもの」を売っているということ以外にないので、その形態はさまざまである。小説はもちろんのこと、詩歌や評論はもとより、漫画もあるし、「詩作したものに曲をつけた」という意味で音楽も普通に出されている。それ以外にも、写真とことばの融合というかたちで詩と写真集を一体化させたものや、一見作品とは思えないような見た目のものがあったり、創作形態が多岐にわたるのだということを思い知らされるような場であるのは確かだ。そのクオリティも高いものはプロの作品を圧倒するものがあるし、大学の文芸サークルや高校の文芸部なんかもいるし、かつては駅前や繁華街で詩を売り歩いていたのだろうなあ、というような年季の入ったひとも見かける。それが一堂に会するというところが文学フリマの面白いところでもあり、脅威でもある。そこに内包されているのは、まさに多様性であるが、かれらはみな己の中に文学を抱えているという意味では画一であるともいえる。多様性が尊重されるには、秩序がなければならず、それが文フリにおいては文学というアイコンに収斂されているのだ。これが文フリの最大の特徴である。いわば東京から「のれんわけ」されたように開催される地方都市の文フリでも、この点は同じである。

 

 だからこそぼくは、書き手だけでなく、すべての表現創作者や、文学というものを意識しているひとたちに遊びに来て欲しいと思っている。「お高くとまっている」「内輪」などという声も耳にするが、もはやそれが批判にあたらないほど規模が大きくなっていると感じている。そういう雑言を投げつけるようなひとこそ、その景色を見てほしい。そして、できればぼくと同じように全国の景色を比べてほしい。地方都市の文フリは、その都市ならではの「くせ」があるから、それを見に行って欲しい。

 各都市のくせ、については、またまとめるべき時にまとめたいと思う。

 

 というわけで、次回の文フリ東京には、D-02「ごうがふかいなHD」にてお待ちしております。当日は新刊となるスチームパンク浦安小説集「煤煙~浦安八景~」ほか、フューチャーファンタジー、現代ファンタジーなどの長編や短編集、エッセイ集など様々なものを取り揃えておりますので、ぜひ。事務所受付の真裏、入り口すぐのところに配置されています。すぐ見つかると思うので。

シーズンレースのレート改定について

 どうもおもちくんです。

 

 というわけで、2018ステージの前半部分が終了したため、ここで書き手レートの改定を行いましたことをご報告させていただきます。

 書き手レートとは、特定の書き手の「無双」を防ぎ、かつ、ぼく個人としての推し具合を数値化するためにシーズンレース内で導入された制度で、8点を上限として、特定の書き手に評点実績や記事化実績などに応じた値を割り振り、評点合計からその分を割り引いて総合点とするものです。ステージ前半にあたる、文フリ東京25シーズン、文フリ京都シーズン、文フリ前橋シーズンでもレートの割り振られている書き手とそうでない書き手が入り乱れていたかと思われます。

 今回、以下のいずれかにあてはまる書き手をターゲットに、レートを改定、新設しました。

・昨ステージ(2017ステージ)で1つ以上の個人誌が70点以上を獲得している。

・昨ステージにおいては60点以上、今ステージにおいては115点以上の作品が合計で2つ以上ある。

 

 レートについては、平均評点をベースとしたものに、記事化された作品数、首位の作品数、合同誌の参加作品数を考慮し傾斜をかけ、すべてが満点の状態で8.000を基準として数値を算出しました。なお、昨ステージの評点分布をベースとしているため、今ステージの評点においては、その値に0.58をかけたものとして計算を行っています。

 この結果の一部をここに公表します。

 

 主なレート改定(以下、便宜上敬称略させていただきます)

・咲祈 7.120→7.069

・オカワダアキナ 6.560→6.569

・灰野蜜 6.400→6.494

・にゃんしー 6.200→6.280

・伴美砂都 5.960→6.201

 

 主なレート新設

・泉由良 6.550

・ひのはらみめい(そにっくなーす) 6.118

・遠藤ヒツジ 6.038

・紺堂カヤ 6.000

・高梨來 6.000

 

 以上により、ここまでで圧倒的な記事化力をみせつけてきたノンレートの泉由良氏が晴れて6.550という超高レートでの参戦となった。これにより「まんまる四天王」クラスの書き手がひとり増えたため、「まんまる五人囃子」と改称することにする。

 また、これ以外の書き手であっても、平均評点を基準としたレートは存在している。それは記事化されたときに明らかになるだろう。

 

 さて、文フリ東京シーズンに入りたいと思う。

 

広報と表現のはなし

 長いことシーズンレース以外で記事を更新しなくなっていた。

 このメモ帳は何のためにあるのかといえば、徹頭徹尾、ぼくの公開備忘録として、ただそれだけである。シーズンレースだって、事業化しているところはあるが、原義的な目的は、ぼくがよりよい作品に出会えるため、ぼくの作品がより多くのひとに取ってもらえるためで、そのためにとった方法にすぎない。

 

 過日、尼崎文学だらけにて「しん・まんまるびより」という限定同人誌を頒布した。極めて簡素な日記のようなエッセイ集であったが、不本意にも(?)好意的な意見が多かったので、調子に乗って(?)、このメモ帳でも似たようなことを気が向いたときにつらつらと書いていこうと思う。

 勘のいい方はここでお気づきだろうが、カテゴリ「しん・まんまるびより」として残された記事の目的は、ぼくが「しん・まんまるびより」の新作を出すときの道しるべが主だ。それ以外は副次的なことにすぎない。

 

 ここ一ヶ月の間、文芸創作同人界で、たてつづけにショックなことが起きて、いろいろ考えた。そのことについて、ここに書き記したい。

 文芸創作同人界隈という、狭いのか広いのかいまひとつよくわからない社会で生き続けるには、何より広報活動が重要となる。どれほど作品そのものが素晴らしかろうと、それを必要としているひとに届けられなければ、意味がない。文芸創作同人界隈に身を置く以上は、作品を発表する根本的な目的として、それ以外はありえない。もちろん、作品を出すモチベーションや、インスピレーションは別に用意されていたほうが健全であるし、それをメインとしているひとも多いことはよく知っている。だがしかし、自分で書いた小説、もしくはそれ以外の表現作品をブラッシュアップして、ほかのひとの手の中に収められる形にした時点で、自分以外の誰かに読まれることを前提としないことはありえない。うどんの麺をゆでたらつゆがあろうがなかろうがうどんが出来てしまうのと同じである。本になった時点で、それを即売会その他のイベントに持って行ったり通販にかけたりすることで誰かの手に渡ることを前提とし、それを了承していなければ話が始まらないはずである。それはゆめゆめ忘れてはならないことだと、ぼくは自戒を込めて思う。

 話を戻そう。広報の目的というのは、「伝えるべきことを伝えられるべきものに伝え、伝えてはいけないことを伝えない」ということに尽きると思う。

 つまり、広報と表現活動というのは相似形であって、この同人という界隈に身を置く以上、広報活動まで含めて創作表現活動となってしまう。

 そう、なってしまうのである。

 本人がそれを望むか望まないかではなく、必然的にそうなってしまう。そして、そういった多角的な表現活動を行えば行うほど、その人となりと表現物は切っても切り離せない関係になっていく。どれだけ注意を払おうが、どれだけ切り離して考えようとしようが、本人が制作と広報を行っている場合は、必ず作品と作者はセットになってきてしまう。これは、創作系同人界隈特有の問題である。プロの世界では、最近はともかく、創作活動を行うひとと広報活動を行うひとは分けられている。だからこの問題が起きにくい。ここ最近でぼくが直面した、界隈でのショックな出来事はすべて、この原則が当事者間で押さえられていないことに端を発しているような気がしてならない。

 ブレイクとは馬鹿に見つかることだ、と表現したのは有吉弘行だったか、非常に的を射ていると感じるし、彼はことばによる表現センスが数多の芸人のなかでも抜きんでていると思う。すなわち、このことばを借りるならば、同人界にとって、ブレイクすることはむしろ、マイナスの面ばかり出てくる。いわゆる「馬鹿」ほど本質を無神経に掬い取ってしまうし、無遠慮に直視してしまう。馬鹿ではないぼくたちですら、ときとしてあっけなく創作者を傷つけてしまうというのに、かれらはぼくたちの何倍もの質と量で優れた創作者に無意識に牙をむく。だからぼくたちはできるだけ、馬鹿に見つからないように生きていかなくてはならないのである。

 直面した、もしくは垣間見たそのショックな出来事について、ぼくはいずれも当事者を名乗れないほどに遠い。だからそれについて語ることはできないが、このもやもやを解き明かしたいという思いでいろいろ考えた。その末に出てきたのが上記の考えである。

 もっと広い世界に、優れた作品を知らしめていきたいという思いはあるけれど、それが本当にぼくが望んでいることなのか、今一度慎重に考えてみるべきだと思ったし、そこが固まったとき、ぼくは同人イベントを手掛けてみたいと考えている。それが来年なのか、5年先なのか、それとも永遠に来ないのかは、ぼくもわからない。

 とにかく、この1か月は激動だった。そして、創作モチベーションの安定を揺るがしかねない危機的な状況も目にした。少し創作から離れるか、むしろ小説を書くことだけに集中すべきか、ぼく自身も決めあぐねている。

 ぼくは何かを表現するのに値するのだろうか、ということを常に考えさせられているし、しかしながら憎たらしい社会に抵抗するためにこの活動を行っている以上は、その表現に価値があろうがなかろうがぼくは戦い続けなくてはならないとも考えていて、そのゆらぎから脱することができない。

 ぼくは「小説」を書きたい。ただたんなる読みものや物語ではなくて、「小説」を書きたいのだ、というのがここ最近の想いで、そうあれるようになりたい、と切に、切に思った。

 まだまだ、書き手として生きていきたい、と思う。

 

 

 蛇足。読み手としてのぼくは、たぶん物語が一番好きだ、と思う。小説による形での物語、が一番フィットするのだろう。シーズンレースで上位になるのは、そんな作品ばかりだ。

生まれてから一度も制服を着ないでここまできてしまった

 どうもおもちくんです。

 

 ということで、文フリ福岡に参加した2日間で読み切ってしまった文フリ前橋シーズンも、のこすところあとひとつだけになった。

 

 椿屋四重奏というバンドの曲に「シンデレラ」というものがある。椿屋四重奏のムーディなボーカルが、分厚いサウンドに載せられて、まさにシンデレラの夢のような独特の世界観が繰り広げられる。たいていのバンドはボーカルが曲全体をリードしていくというのが普通なのだが、彼らの曲はすべてのパートが互いに響きあっていて、それが重厚でムーディなサウンドを作り上げているのが本当に面白い。

 

「遊園地とクレイン 第七号 制服」著:梅に鶯

 文体:30 空間:30 (半客観分野:60)

 感覚:31 GF:39 (主観分野:70)

 闇度:0.546 レート:なし

 総合:130.546(文フリ前橋2シーズン 1位 ごうがふかいな賞

 

 ということで、第五号に引き続き、ふたたびシーズンレース1位になった梅に鶯である。ここまで読んできた中でも、抜群の安定感を誇る文芸サークルであり、この4人がそれぞれの個性を見せながらも、個のパワープレイに徹することなく、ひとつの合同誌を完成させるという目的のもと、それぞれがそれぞれの役割を意識しながら作り込まれている感じがものすごくするのである。こと、この創作文芸同人誌界隈における合同誌というものは、互いが互いのサークルを宣伝しあうような、個人のパワーのぶつかり合いみたいな、いわゆる対バンタイプのものが非常に多い中で、この梅に鶯の合同誌というのは非常に特異に映る。他が対バン、もしくは企画でいくつものバンドが集められているようなひとつのハコのようなものだとしたら、梅に鶯のこの「遊園地とクレイン」シリーズはまさにひとつのバンドがいくつも曲を演奏していくような、そういう豪華さがある。もちろん、いろいろな書き手の個をぶつけ合う合同誌もそれはそれの楽しみ方があるし、その中でも素晴らしいものがあるのだが、もし、そういったものに少し飽きを感じ始めているのならば、ぜひ梅に鶯の「遊園地とクレイン」をお求めになって欲しい。今回は制服だが、過去様々なものをテーマに、四者四様の筆致を描きながらも、それ自体がひとつの作品として収斂しているという、団体としての美のようなものを感じることが出来るだろう。

 ちなみに、今回のこの七号でいうと、唯月海理氏の「未来へ」が展開の引き込みに秀でていて読者を引き込み、松井駒子氏の「金魚救い」と倉田希一氏の「瀬音に流す」で重苦しい業のようなものを見せられ、最後の上矢竜暉氏の「愛の在処」でどこかすっきりとさせられるというこの一連の流れは、エンターテイメント性がある。けれども個の作品を見ると、それだけじゃなくてすべてにどこかしらの文学性をみることができるのだ。先ほどから再三のべているように、このような本づくりは一朝一夕で出来るようなものではない。お互いがお互いの書くものを分かり合ってからこそできる芸当なのである。合同誌サークルを出している書き手の皆さんはぜひ、読んでみてほしい。

 

 とまあ、そんなところで文フリ前橋シーズンは終了である。

 ここで、書き手レートの修正を行いたいと思います。修正結果については、後日記事を書こうと思いますので、ご注目ください。