かーびぃのメモ帳

球体の生物が日々感じたことをつぶやくよ!

夜空に輝く星が本当は何度の物体かなんて誰も知りたくない

 

 どうもかーびぃです。疲れてます。

 

 弐寺こと「BeatmaniaⅡDX」という音楽ゲームシリーズの最難関曲の一角としてそびえたち、そのアナザー譜面は、今なお同シリーズの段位認定(プレイスキル判定モード)の最高クラスである「皆伝」の最終曲として君臨し続けている、知る人ぞ知る「冥」という曲がある。こんな曲だ

 

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 たしか、コンセプトは「冥王星へ向けてひとりの男がロケットで旅立つ」的な感じだったと思うがかーびぃ氏そんなに弐寺詳しくないからわからん。気になったらてきとーに調べてくれ。わしの批評なんてそんなもんだ。

 この曲のコンポーザーであるTatsh氏とdj.TAKA氏についての言及はめんどくさいので避ける。かーびぃ氏はこの曲が好きである。特に加速が終了してからの俗にいうウィニングランのあたりがめっちゃ好きだ。どれくらい好きかというと自分の小説にそれをモチーフとしたエピソードをまるまる書いてしまうくらいである。

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 この長編の最後のエピソードの読みがまんまであることは賢明なるかーびぃファンのみなさんならすぐに気づくことだろうが、つまりそういうことである。

 

 マクラがマクラじゃなくなっている現象はいい加減卒業したいんですけどねえ。

 

「最深の心悸の宇宙の続き」著:酒井衣芙紀(無芸)

(通読性:16、宇宙感:22、残響度:19、嗜好:8、闇度:A 合計72点)

 先日、その他のところで書いたように、著者の酒井衣芙紀(さかい・いぶき)氏はテキレボ5で無料配布の文章を受け取ったときに衝撃を受けたことからこの詩集を買いにいったことから始まった。正直に言うと、自分のブースのほぼほぼ正面で、雰囲気がなんかほかの人と違うひとがいてめちゃくちゃ気になっていたところに無料配布があったから頂戴したらなんかすごいことになっていたみたいなそんな感じである。かーびぃ氏あるあるの勘ってやつだ。そういえば「見た目はオールドタイプだけど中身はニュータイプ!」っていうギャグを昔よく使ってた。

 そんなことはどうでもいい。

 結論から言うと、ぼくの勘と引き運が最高だったという話で、こういうのがあるからテキレボはやめられねえってなる巡り合わせを感じた。(「師匠」こと咲祈氏と出会ったのもテキレボ1である)

 いいから内容を書け。

 内容。とはいっても詩というのは専門外なので、客観的風の文章すらまともに書けないレベルなのだが……。もう、本当に簡潔に、何かひとこと言ってくださいっていうマスコミのクソみたいな質問をぶつけられたとしたら、「宇宙!!!!!!!!!!」って答える感じの。

 いや、こう、なんかこう、なんというか、何重にも宇宙なんですよ、何重にも。こう、いくら微分してもそのまんまのエキスポネンシャルな関数あるじゃないですか、そういう感じ。天の川とかそういう低次元な宇宙じゃなくて、たとえばこう、無限にマトリョーシカがいくらでも連なっていて、そして一番小さいマトリョーシカメビウスの輪みたいにある日突然わっと内側と外側がつながっちゃってさあ大変!みたいな、言語系SFもびっくりの集積されきったワードがそこにあるわけですよ。なんかこう、ワードひとつひとつが中性子オンリーで形成されてるみたいなきわめて甚大な重力と質量を持ち合わせていて、それが幾重にも幾重にも、つかず離れず連綿と続いていくのかと思いきや、それがこう実は1次元ではなくて、2軸にわたってることに気づくわけ。で、両方の軸から連なる平面を追っていくと急に3つめの軸が、4つめの軸が……みたいな感じで無限に次元が広がっていくわけ。もうアレですよ、自分でも何書いてるのかてんで意味不明なんですけど、この詩集そのものが宇宙、ってなくらいもう世界観から何から宇宙なんですよ。攻めすぎなんです。攻めすぎ晋作。ぼくがこの文章を初対面の人にいきなり晒したら引かれるのと同じで、この詩集、例えば自分がストーキングしている黒髪ロング一重まぶた微乳お嬢様系女子に渡したらもうそれはそれで大変なことになりますよ。

 マジで途中でボケざるを得なくなるくらいこの詩集について語る言葉が不足しているのだが、とにかく、全体から漂う、人間の肉体を極限まで概念的な意味で拒絶した造りになっている感じがもうとても、すごくすごくよい。その構造そのものの人間らしさとでもいうべきなのだろうか。これもひとつの「ごうがふかいな」の形なのだが(なんだそりゃ)、ぼくはこういう構造によわい。

 あとまじめな話をすると構成力に秀でているというか、単にテキストだけの構成にしていない作りがいいなあと思う。この人の別の詩集にはそれが前面に押し出されているし、作り込みというものがとても巧いひとではないかな、と思う。ぼくはむしろ言語でしか知覚できないのでその逆のスタイルを行くしかないだけにこういうタイプは本当に尊敬する。

 ちなみに、とりわけ「最小の単位で」と「十二光に恋」が好きです。

 

 記事の7割くらいはノイズですが、残りの3割にすべての重みを詰めてみた。

 これにて、テキレボ5シーズンの批評は終了です。次回は、文フリ金沢シーズンとなります。お楽しみに。

思い出にも五分の魂があるのだとしたら、その集合体が狂気と化して人を殺すに違いない

 

 どうもかーびぃです。

 

 ぼくらの青春といえばそう、ミスチルことMr.childrenなわけですが、彼らがミリオンヒットを飛ばしまくった中のひとつに「Tomorrow never knows」という曲がある。という曲、とかもったいをつけなくても下手をすれば日本人のボリュームゾーンの3割くらいはすぐにサビを思い浮かべられるのではないかというくらい、CDがアホみたいに売れた時代にそれこをアホみたいにいろんな曲を売りまくったミスチルの中でもトップクラスにヒットした曲だと思っているがいかがだろうか。え?「ニシヘヒガシヘ」のほうが好き?ぼくもだよ~~

 

 この曲は「果てしない闇の中に♪Oh!Oh!手を伸ばそう~♪」ってサビが有名ではあるが、全体的に歌詞を俯瞰するとなんかこう、「いろんなことやってきたけど前に進むしかねえんだよな」的な、「ごうがふかいな」的価値観を確かに持っている素晴らしい方向性でぼくはこの歌詞が大好きである。ゆえにエハラマサヒロの歌真似はあんまり好きじゃない。

 

 というわけで、文フリ東京(秋)シーズンに引き続く「ごうがふかいな」枠(今作った)としてものすごい本が今回、テキレボ5シーズン2位にランクインしている。

OMOIDE IN MY HEAD」著:富田(燃えてるゴミ)

(通読性:19、宇宙感:16、残響度:14、嗜好:7、闇度:A 合計:63点)

 これも隣のサークルからいただいたものである。文庫本56頁、決して多くはない文章に2編の高濃度な短編が詰まっている。どちらも、女装男子、いわゆる「男の娘」が物語の中心となる小説であるが、その濃度が半端ではない。前半は、大きな喪失感を抱えたまま生きていこうとする男性の話、そして後半はもがきながらなんとか幸せをつかみ取ろうとするカップルの話。いずれも「男性と女装がデフォルトになった男性」という組み合わせで、コモンを取り繕おうとするイレギュラー、というようにぼくには映った。それはイレギュラーが大手を振って歩くことが何かと難しい社会に生きているぼくたちを鏡のように映し出し、炎のようにあぶり出す。ぼくの嗜好としては前半の話が圧倒的に好きで、こちらがこの本の9割の「ごうがふかいな」を占めるといっても過言ではない。しかし、この小説が書かれた背景、そしてこれが平然と同人誌として即売会に並ぶ風景、それらを考えていった結果、むしろ「ごうがふかいな」を体現しているのは後半の小説なのである。ここがこの同人誌のすごいところで、つまり、内部性も外部性も「ごうがふかいな」でバランスがとられており、統一されている。これは「ごうがふかいな」を提唱したぼく自身でも作り出せない、かなり完成度の高い「ごうがふかいな」である。

 先日の「ヴェイパートレイル」とは逆のことを書くが、この短編集に登場する2組のカップルに「尊さ」は感じられない。むしろ、どことなく「やれたかも委員会」的な、自分の中に眠るIFを具現化した清純おじさん(童貞という言葉はあまりにも雑味が多すぎて、ニュアンスの方向性を狭めたい場面では使いにくい)の、まさに「業」を感じさせられる。素晴らしい、あっぱれとしかいいようがない「ごうがふかいな」であり、コアなかーびぃファンの皆様におかれましては、ぜひとも一読いただければと思います。とは言いつつもこのサークルは諸事情によりしばらく活動を中止してしまうそうだが。

 

 よく表現が独特とか言われるけどねえ、かーびぃ氏はみなさんよりはるかに語彙力がないだけなんですよ、自分の感じたことに綺麗に当てはめられる言葉を知らないから近い感覚でわかりやすい言葉をいくつも重ねて近似していく。だから詩は書けないんだね。

 的なことを次に書く、2017年初の70点超えを果たした詩集を読んで思った。

飛行機雲に彩られた空がいつのまにか物悲しく見えるようになった感性の変化を老化とは呼びたくないのだ

 どうもかーびぃです。

 

 荒井由実(現:松任谷由実)の代表曲に「ひこうき雲」というものがある。近年では宮崎駿監督作品「風立ちぬ」に使用されていたことからも若年層に対してそれなりに知名度のある歌ではないかと思う。ちなみにぼくの父親はこの曲が好きで、昔からカラオケに行けばよく歌っていた。サビの盛り上がりも美しいが、それ以上に特徴的なのは、儚い命を懸命に生き、そして死んでいった病気の青年の姿が克明に、かつ、虚無感にも似た透明感を強調して描かれた歌詞にあるといえる。非常に泣ける曲だ。

 後から付け加えられたそのものズバリなマクラもなかなかに雑でそれはそれで味になるやもしれぬ、などとゲスいことを考えてみたり。

 

 さっそくですが、テキレボ5シーズン、3位のこの本についての紹介、および感想を述べていきたいと思う。

「ヴェイパートレイル」著:凪野 基(灰青)

(通読性:18、宇宙感:17、残響度:17、嗜好:7、闇度:C 合計:62点)

 凪野氏による短編集である。クラフト紙を思わせる薄茶色を基調とした表紙がとても好きだ。

 この短編集には4つの短編が収録されているが、いずれもどことなくファンタジックな雰囲気が漂う世界観を擁しており、ファンタジー短編集ということになるのだとは思うが、見方を変えればSFとも読めるし、これはぼくが提唱した「フューチャーファンタジー(近未来系ファンタジーだがSFとは明らかに趣を異にするもの)」ではないか?というものもあった。どれもこれも、生命というものの存在、概念を問いかけてくるようなもので、ぼくの中では、まさに荒井由実の「ひこうき雲」を想起させる、これこそまさしく、「ヴェイパートレイル」というタイトルを冠するにふさわしい短編集である。

 以下、各短編について。

 「いざよいの夏」は、ヴァイオリンを軸として描かれる、少年と少女の青春ストーリー、というとやや誤解が生じそうなところもあるが、おおざっぱにネタバレを避けるくらいであればこれくらいの表現がちょうどよいと思われる。主人公の少年の感情の動きが非常に鮮明かつ巧妙で、物語への強力な引き込み線になっている。また、ヴァイオリンの曲としてその主軸を「情熱大陸」にしたのは非常に憎い。弾きたいと思わせられる上に情景が美しい。これが「G線上のアリア」とかになってしまうと物語がのったりしてしまうのだが、この分量でこの起伏をつけるのにぴったりな選曲であったといえる。巻頭作として強い引き込みを持つしとても美しい短編であった。

 「ピートの葬送」は、どこか星新一の世界を思わせるような、妙ちきりんな機械化が進行した世界で起こる、ペットロボットの葬儀とそれを見守る職員(彼もロボット)、そしてペットの家族とのやりとりが繰り広げられる。情景もセリフ回しもどこか星新一ワールドを漂わせながら、しかし本家のように冷笑するブラックユーモアにはもっていかず、あくまでいのちを問いかけ、登場人物に優しい目線を降り注いでいるのが凪野氏の作風なのだなあと思わせるような短編。

 「雲曳きの配達人」は、とある世界の飛行機乗りの話。実はこの話が読みたくて買ってきたものである。かーびぃはひこうきがだいすきなんぢゃ。戦闘機乗りのアイドルとして、文字通り身を粉にして働いたものの、負傷して前線から遠ざかった街で療養させられているメグと、曲芸師でありながら、郵便公社所属のパイロットとして定期便を運航するルイの、ボーイ・ミーツ・ガール(ボーイでもガールでもない感じではあるが)とでも言えばいいだろうか。とにかく、こう、かーびぃ氏の力がたりなくて言語化できないのだがとても「よい」空気が流れているのがよい。とくに最後の場面の二人のやりとりはもう素晴らしい以外の言葉がでない。ああ、腐女子ってこういうとき尊いって言葉つかうのかなあって思ったくらい。

 「宇宙船クジラ号」、これもまたフューチャーファンタジーかSFか、みたいなジャンルの短編である。ノアの箱舟を思わせるストーリーと、クジラが暢気に宇宙を泳いでいるのを想像してしまい、さしずめBGMはジュディマリの「くじら12号」だった。設定がシリアスなのに、文章全体から感じるこののほほん感は一体なんなんだ、と思うくらいほんわかした短編。この中で一番好きかも。

 

 素朴な短編集ではあるが、すべてが粒ぞろいでどこかあたたかい。凪野氏の作風なのだとぼくはそう思う。

 

 次回は2017最「ごうがふかいな」にノミネート確実のすごい「ごうがふかいな」なあの短編集をご紹介するよ!

生きる糧も死ぬ宛ても失った概念はやがて汚染されたミームと共に別の概念へ転生されていく

 どうもかーびぃです。

 

 (※この記事は比較的わかりやすい文体にチューンされています。物足りないかーびぃジャンキーはがまんしてね)

 新作を書きたいと思い、新たな「ごうがふかいな」は一体どこにあるのかとあたりを巡らせるとどうしても自分が一回書いた得意分野でもういちど勝負をしたくなってしまうわけで。

 そんな感じで、さえないおっさんやおばちゃんになってしまった男女が、昔はバンドマン目指して頑張ってたり、ドキドキメンヘラ女子大生になって爛れた性生活を送っていたりはちゃめちゃだったんですよ、みたいな感じの小説を書こうと奮闘している。とはいえかーびぃ氏自身はさしてはちゃめちゃではない学生生活(どちらかといえばどんよりわくわく時々地雷、みたいな感じだ)だったので、こう、はちゃめちゃな学生生活を妄想しながら、それでもなんとか前に進んでいくみたいな話を書いていくつもりである。

 

 さてさて、そんなことはどうでもよくて、テキレボ5シーズンの期日が来てしまった。文フリ金沢との関係で、大変残念だがDNR(読了ならず)処理をしていしまったものもいくつかある。でもこれは後で読む。後で読むのだ。

 というわけで、ここまでで読んだものは7冊。

 うち選外の4冊について、ここで軽く感想を述べておきたい。

 

「ZURE イリエの情景~被災地さんぽめぐり~/鬼系事雑記」

著:今田ずんばあらず/小宇治衒吾 (TUDURI)

 隣のブースで巨大なタワーを建設していた、今田氏を中心とするサークルの文庫本。この本は、最初の9割を今田氏の被災地巡り小説と、残りの1割を小宇治氏の薄暗いファンタジーで構成されている。個人的には小宇治氏のファンタジーがなかなかに薄気味悪い感じで好きだったが、必然的に今田氏の被災地巡り小説に字数を割かざるを得ない。

 この小説は、依利江(いりえ)と三ツ葉(みつば)という架空の女子大生二人組が、東北の被災地を旅するという形で、(おそらくは)今田氏の体験や旅行記を元に再編集されたものである。それだけに、旅行当時の情景や人々の会話、そして主人公である彼女たちの言葉を借りて描き出される、被災地のみならず日本中に落とされた東日本大震災という影の存在が物語中でも多くのウェイトを占める。その空気が時空を超えて、まさに津波のようにこちらの都合を考えることなく押し寄せてくる。それはさしずめ、取材当時の空気をめいっぱい閉じ込めた缶詰のようだ。

 その缶詰がさび付いていてなかなかあかなくなっているのか、今にも開きそうなほど真新しいのかは、読む人次第だろうと思う。

 

「イヌガワラの缶詰」著:あおせか(あおせか)

 テキレボの打ち上げで同席だった青那流(あおな りゅう)氏が代表を務めるサークル「あおせか」のおそらく初めてではないかという合同誌。表紙のかわいらしさが目を引く。「犬」「缶詰」「河原」という三題噺で、字数を5000字に制限するという、なかなかチャレンジャブルな合同誌だったが、それぞれの色が如実に表現されており、はらはらしたが意外と飽きなかった。

 ひねくれものが多いのか、いったん読んで「あれ、このお題どこにあった??」って思うようなものもあれば、ワードをかなり話の中心に据えているようなものもあって、合同誌の良さはこういうところにあるんだよなあ、などと思った。

 フォントと行間は全部合わせたほうが読みやすいと思います。

 

「ニューロマンチック教唆の断罪」著:酒井衣芙紀(無芸)

 同じくテキレボの打ち上げで同席だった酒井氏による詩集。実は酒井氏のブースには無配物でピンときたのでお邪魔していたのだが、こちらは打ち上げでいただいたもの。本人曰く「多くの人に取ってもらえそうな詩集」にしたとのことだが、読んでみてだいぶ攻めているなあ、これをテキレボの新刊に持ってくるとは攻めているなあ、と感じるすごい出来だった。ぼくはテキストの羅列でしか文章を表現できないが、この詩集はフォントやレイアウトを駆使してアクティブに視覚に訴えてくる強さがある。そしてワード配置の癖がやはりどストライクだった。ここまでどストライクの作家がそうそう出てくるものではないとは思う。作者の詩に対するひたむきな想いと、詩集を製作する上での高度な技術力を感じる、素朴な装丁の詩集であった。とくに表題作は多くの人にこの紙面の状態で読んでいただきたいところだ。

 

「潮伽 縮む里」著:壬生キヨム(cieliste)

 文字通り、概念が圧縮されたような不思議な短編集(あるいは、連作短編)。正直ついていくのがやっとのレベルで圧縮されている。お餅ってレベルじゃなくて、いうなれば防災食だ。序盤の短歌の羅列とすさまじく読みにくい語りが印象的で、狂気じみたものすら感じる。だが最後まで読み終わった感覚は悪くなかった。物語は「世界が縮んでいく」という設定を軸としてひたすら辺縁を描いていくのだが、肝心な部分がそれこそ「縮んで」しまっている。高い読解力が必要だろう。ぼくはぎりぎり読めなかった。

 この文章を書けること、そのものが才能だろうと思う。

 

 以上4冊についての感想であった。

 ちなみに、この4冊のうち2冊は60点台である。つまり、60点を超えた本が5冊もあるということだ。文フリ京都よりもすごくないか、それ。

 

 以降は今シーズン上位3冊についてひとつずつ書いていく。

懐に隠すべきは爪でも脇差でもなく一発の銃弾とそれを素手で打ち込む技術だけだ

 どうもかーびぃです。

 

 テキレボ、第5回に参加してきました。ここまでたどり着くのにかなりの道を歩いてきた気がする。第2回に一度「そりゃたいへんだ。」で参加している身ながら、しかし、個人的にはついに、といった思いが強い。この場に軽率に入り込むことが果たしてぼくにできるだろうか、できただろうか。そして、第5回にして新参者のぼくを、この界隈はどのように迎えるのだろうか、そこがとても気になった。

 というあくまで自意識上の話は隅に置いておくとして。

 

 イベントには朝、設営から参加した。浅草線が遅れたこともあり最初のミーティングに参加できなかった上軍手などのまともな装備もなかったので正直微妙に使えない感じになっててなんか申し訳なかった。職業柄こういうことは結構やっているつもりだったのでもう少し真面目に準備しておけばもっと役に立てたなあと素直に反省している。

 設営が終わって、自ブースの設営もひと段落して、両隣のブースの主を観察したりケント紙にかーびぃ氏の絵をかいて「まんまる書房」とか手書きでやっている間にイベントは始まっていた。

 とにかく、文学フリマとは明らかに違う文化を感じたのはここからだった。開始1時間くらいでひょこひょこブースを閉めて遊びにいく人が続出し始めるところまでは文フリと同じだったのだが、何をするのかと思いきや、無料配布の品物をつぎつぎと貰っていく玄人の皆さんがぞろぞろと行脚を始めていて、なるほど、この文化がいわゆる「テキレボンドリーム」とも呼ばれうる不可思議な頒布実績につながってくるのか、と膝を打った。

 ぼくは無料配布反対派であり、いわゆる原理主義過激派だった。それは、作成者の労働対価が作成物に反映されていない生成物など、作成者の知的ダンピング行為にほかならず、界隈全体のデフレ経済を誘発するため断じて許されるべきものではないと考えていたからである。

 だが、冷静に考えればこの玄人のみなさんの取った行動、および無料配布を「推奨」するともとれる準備会の動きは非常に理にかなっており、そのうえ商業的であり経済観念上でも理屈のつけられるものでもあったのだ。

 無料配布物は、いわば広告費として作成者が作成物の作成およびそこに要した労働対価を間接的に「場」に支払うことで、需要と供給の場そのものを円滑に動かすものとして用意されるものであった。第1回を除けば、前回までぼく自身はこの会場に足を運んでいなかったわけだからそれまではわからないが、第5回に関してのみ言えば、この無料配布物の作成により多くの需要を呼び込むことが出来ていた。それは名刺の役割を果たしている。これが文学フリマには今のところ存在せず、今後も形成されないか、もしくは形成されるまでに相当の時間を要するかのいずれかである、すなわち現時点ではテキレボ固有(あるいは、テキレボで最大といえるであろう)の文化であり、独自の流通形式である。

 ということで、テキレボはとても商業的な世界観をもつ即売会であるという、ぼく自身が第1回で思い描いたことをそのまま進歩させていったような、発展的でありかつ先進的な即売会と言えるのではないだろうかと思う。

 だからこそ、両隣がどちらかといえば文化的な側面を持ち合わせているサークルであったことにぼくは言いようのない安堵をおぼえた。主流派とは明らかに流れを異にしているサークルがそれなりの数確保されているというのは全体の居心地に大きな影響を与えているように思う。そして、それがある程度(おそらくは、運営の計らいなのであろうが)近所に集約されているというのが非常に配慮されているなあと感じた。大規模になってしまうとできなくなってしまうことである。ここが非常によかったし、次も参加しようと思える部分でもあった。

 作られている頒布物のレベルも格段に上がってきていると感じた。もはや、ぼくは批評することが主になってきていて、自分の創作を広げていくという行為がおざなりになりつつあるわけだが、文フリ京都といい、このテキレボ5といい、強烈な重量を込めて打ち出されたワードや鍛え抜かれたセンテンス、それらを編みつくしたパラグラフの塊に圧倒され続けているし、なにより装丁にも力を入れているところが多いのがなんというか、すごいなって(語彙力)。

 最近気づいたのだがぼくはそもそも、描出という行為そのものがとても苦手である。おそらく抱えている障害に起因しているのかどうかはわからないが、読み込みはできるが書き出しが極端に弱い。だからすべて言語で処理するし文章しかまともに書けないのである。その文章だって手書きではろくな形にならない。だから絵を描けることそのものをすごく尊敬するし、そういった人の力を借りたいと思っている。なかなか難しいのだけれど。

 ちなみに、頒布実績は、結局両隣のサークルの方に新刊をお渡しできたのとタンペンツメホウダイとしていくつか配ったのと、それっきりになってしまった。長文で語りかけていくスタイルなので無料配布ものを出すのはかなりの労力を必要とする気がするが、次はなにかの企画に参加してみたいと思う。読んだ中で、ひとりでもぼくの小説を気に入りそうな人が、ぼくとその周りのブースを訪れることで何かが変わるかもしれないからだ。そういう可能性に目を向けたいと思うくらいには、ぼくはこの即売会とそのあとの打ち上げによって精神が若返った。

 

 そうそう、打ち上げについて述べるならば、ぼくはとても引き運がよかったといえる。絶妙なタイミングで話せたいひとと話せた、これで今年の引き運はすべて使い切ってしまったようなものだ。明日からめっちゃ激務だし。

 軽率に打ち上げ行ってなんか軽率にいろんな人と話して朝までは後悔していたのだけれど、結局はそれでよかったと思い始めた。ぼくの正体は軽率なのだからどこまでも軽率でいいのだ。そこで突っ走って死ぬまで、もしくは越えられない壁に突き当たるまで進めばいいのだろうと思う。そしてそうしたくなくてもそうしなければならないくらいにほかの道は残されていないのだ。

 まあなんでもよかったんですけど、とりあえずありがとうございましたと。そしてまたよろしくお願いしますと。そういう感じです。

 

 というか軽率に黒髪ロング一重まぶた微乳お嬢様系女子と知り合わねえかな~いい加減。