日本ごうがふかいな協会広報

日本ごうがふかいな協会の広報ブログです。

書いては消し書いては消しを繰り返したノートもいつかは紙くずだらけの黒ずんだ塊になって燃やされるのだ

 どうもかーびぃです。

 すげえ、この枕詞を実に1か月くらい書かなかった。ってな感じですっかり忘れてた。嘘、書こうと思っていたが書けなかった。かーびぃは忙しい時は忙しいのである。

 

 たいていの人間は「何者か」になることはできない。なぜなら、その「何者にもなれない」その他大勢の人間が文字通り大勢いることによって人間の社会性が保たれているからである。しかしながら、ぼくたちは都合のいい愚か者なので、自分がいつか何者かになれるのではないかという思いを抱いてしまう。そんなものを抱いたところで何かになれるわけではない。ぼくはぼく、つまりかーびぃはかーびぃなのである。まあそのかーびぃだって元ネタはある(=オリジナルではない)わけだから、そういうことなのだ。

 というわけでぼくもすでに何者かになることをあきらめて、今では単なる一社会人として許される範囲で生活している。何かの新しい価値を生み出す側の人間でもなく、かといって閉塞された社会を打破しようという生きがいもどこかに置き忘れてしまい(いや、初めからなかったようにも思う)、そのうえ独創的な文章すらも書けない本当にただの一般人である。一般人よりは少しレールが硬かったかなあという程度で、結局はレールのある線路に乗っかってしまった以上そこから降りることができなくなっているというだけの話。そして降りることのリスクはどんどん高まっている。だから余計に降りなくなる。あとはなんとかしてアーリーリタイアをもくろむばかりだ。そういう意味ではあまり出世せずに、細々と暮らしながら貯金をしていき、仕事以外のつながりを大切にしなくてはなあ、などと思うわけであるが、しかしつながりを持ちたいと思う人に限って短命そうで、ぼくがいざ頼りにしたいときに限って音信不通だったり生きていなさそうな気がするのである。考えてみればぼくは常に国境の近くにいて、社会から疎外されそうな人とコミュニケーションをとることによって生きながらえるという、ある意味では非常に残忍で下衆な種族である。そりゃ球体の生物にもなるわけだ。

 

 社会は世知辛いのではない、自分勝手な人間が都合よく生きるためにあまりにも特化しすぎているし、みんなきれいごとが好きだから自分勝手に見えないように自分勝手に生きているのである。だから社会の人間は協力的であって協力的ではないのだ。などという若手社会人にありがちな社会論はどうでもよくて、つまり明確に自分を持ち合わせつつ、他人にそれを悟らせない努力というのが社会人に求められるコミュニケーション能力で、これが欠乏している人間は、たいてい次の二つのうちのどちらかだ。すなわち、自分勝手であることを隠せていない素朴さを持っているか、そもそも自分勝手な思考にならないという異次元思考かである。誤解されがちだし異論はあるだろうが、ぼくは自分に対してつくづく後者に当てはまる人間だなあと思う。どちらにしても、結局他人からは「自分勝手である」と思われることに変わりはないのであるが、後者のほうが「自分が自分勝手である」と自覚できていないだけ、より社会において有害である。

 しかし、彼らは本当に、主観的な意味では自分勝手ではないのである。これはぼくがそういう人間だからよくわかる。彼らは自分が自分勝手ではなく、むしろ利他的な偽善者であると思い込んでいるのだ。どういう意味かわからないって?もうすこし踏み込むと、彼らの中でも症状が進んでいる人間は、「自分がこうなのだから、相手もこうに違いない」という者がいる。これが社会不適合者であることはもうすでにお分かりであろう。自分と他人が同じであるという保証はなく、それどころか基本的には他人というのは得体のしれない理解不能な生き物である。であるからして彼らの抱く幻想は間違っており、その結果彼らの導き出した結論が、彼らの中では真っ当であったとしてもひどく常軌を逸したものになるのだろう。これでなんとなくわかってもらえれば、いいんだけど。(説明する気がなくなった)

 形あるもの、常に同じ形を有しているわけではなく、ましてや人間だって第二、第三の人生というものがある。時間tに対しすべての存在は流動的なのだ。ぼくが書こうと思っていたアイディアも、いつか誰かによって具現化されるかもしれないし、逆にぼくがいつまでたっても書けなかったアイディアが、実は誰にも考え付かずに、結局ほったらかされたままかなり後の時代に具現化される、なんてこともあるかもしれない。ご存じのとおりぼくはADHDであり、それを強く意識させられるのは、長編のプロットが書けないことをはじめとした、「作成にとても長い時間がかかる計画を描くことができない」という点にある。ちなみにこれは仕事の面で非常に苦労しているうえに、これからクリアしなければならない課題とも密接に結びついている。つまり、これから先の上司がぼくをそういう人間だと解せるかどうか、というのが今後の職場環境に非常に大きな影響を与える。見たまえ、各パラグラフはつながっているように見えて絶妙につながっていない。よく読めばわかるが全部違う話をしている。パッと見そう見えないだけだ。

 

 形のない理想郷を語ることは誰にでもできるが、それを少しでも建設しようと思うと急に難しい話になる。ぼくはそういう当たり前のことだけを言って暮らしていきたいんだ。かしこかしこまりかしこ。

「池澤夏樹の世界文学リミックス」(池澤夏樹 河出文庫)

 どうもかーびぃです。そういえば昔書評ブログをやっていたことを思い出したので、読んだ本はなんであろうと書いていこうという意志を持った。いつ折れるかわからない。かーびぃは非常に飽き性なのだ。

 

 というわけで、数日前に書店に並んでいたのでおもむろに手に取った本を読み終わったので、いろいろ書いていこうと思う。

 池澤夏樹氏といえば、声優の池澤春菜さんのお父さんということで有名であるが*1、詩人としても作家としてもよく知られている。様々な賞の選考委員にもなっているくらいなので、かーびぃのようなマイクロワナビにとっては天空の城ラピュタにお住まいなのかというくらい上におられる方であるわけだ。まあそんなことはどうでもいい。

 この本にまとめられているのは、氏が個人編集した世界文学全集の解説コラムであり、もともと夕刊フジに掲載されていたものを(おそらくノベルス版を経て)文庫化したものと思われる。夕刊フジという、まあサラリーマンのおじさんが仕事帰りに読むような新聞に載っているコラムなので、文体は非常に軽い語り口で、まるで大学教授が公開授業としてラジオで自分のしゃべりたいことをしゃべっているような感じだ。テーマも始まりのキーワードから「全集」の作品の紹介につなげ、そこから横道にそれて気が付けば次の作品の解説に入っていくというような計算された航路が非常に絶妙で、かなり読みやすい。これから外国の文学作品を読みたいが、何を読めばいいのだろうと迷った人には非常におすすめである。ぼくもこの本を読んで、フォークナーやフィッツジェラルドはともかく、中東やアフリカの文学にも触れたくなった。なんとなく世界を一周しながら二十世紀を振り返ることができる、そんな本である。

 

 とまあ、こんな感じで読んだ本を気が向いたら紹介しておこうかと思う。気が向いたら。

*1:多分普通の人は順序が逆だとツッコむのだと思うがぼくはこの順番で知った

動かないことが生物としての死だというのなら、ぼくらは常に死にたがりながら生きているということになるのではなかろうか

 どうもかーびぃです。気が付いたら半月くらい更新していなかった。

 というかここ半月くらい完全にいろいろな活動が停止していた。それもこれもぼくの半径数メートルでぼくに深く関係する事件ばかりが立て続けに起こるのが悪い。

 

 昔、「笑う犬の~~(シリーズによって生活、冒険などと異なる熟語が入る)」というコント番組があった。当時のウッチャンナンチャンネプチューンの全盛期を象徴する番組であり*1、また今は亡き谷啓が普通にいたり、何かとお茶の間の話題の中心になり続けているベッキーが有名になり始めたのもこの番組からだったように思う。当時はビビる大木にも大内という相方がいたのだ。カンニング竹山の相方も普通に生きていた。*2そしてはっぱ隊の歌は大ブームを巻き起こした。そんな平成のお笑いブームの風がTMレボリューションのPV*3のごとく吹き荒れていた時代がかつてあったのだ。

 何が言いたいか。このころのテレビは話題の中心だった、などという懐古論的なクソどうでもいい話など天下の知能指数に自信ニキ*4ことかーびぃがするはずがない。そのレベルの中途半端にくだらない話などどこかのインターネット噺家(二つ目)とかに任せておけばいいのだ。そういえばササマツ師匠は廃業しちゃったね。あぼーん。(古い)

 ぼくは文系出身だけれど経済学部とかいう数字大好きなアスペ傾向マンかとにかく明るいヤリチン、もしくはふうせんポケモンしかいないようなクソオブクソ学部の出身であるので、政治学にも社会学にも疎いといういわゆる無能なザコなわけで、だからポリティカルコレクトネスという単語の意味がいまいちわかっていないのだが、直訳すると政治的な正しさということなのだ。ってことはアレか、多数決で決まったことはなんであろうと正しいということなのか。だとするならば舛添都知事はなにをどうしようがもう悪者だしベッキーはクソ不倫ウーマンだしもはやデマを流す奴が知識人としてやくみつる伊集院光と3人でクイズ対決する権利が与えられるみたいなそんなウルトラスーパーハイパーセンチメンタルクリティカルディストピアが広がり体中に風を集めて巻き起こせA☆RA☆SHI☆ってな感じになるわけですよ。現実としてそうなっているかというと必ずしもそうじゃないんですけど、そうであってほしいと思っている人がなぜだかすごく多いように思う。なんで知能指数に自信ニキことかーびぃ氏がそんな頭の悪いことを考えるかというと、こう、マスコミの動きとか、今のテレビの情報の切り方、ネットで見る記事の方向性から立体的にそんな雰囲気が描き出されるわけであって、いやあなんというか、世の中こんなにゾンビばっかりだったっけ?なんて思っちゃうわけですよ。ゾンビみたいな国だからまあしゃあないんですけどね。

 

 おあとがよろしいようで。

 

*1:語弊および異論あり

*2:どころかカンニング自体がたぶんまだテレビを主戦場としていない

*3:ようせいなーつがーむねをしーげーきーするー、の人。

*4:そのIQはなんと108という仏もびっくりな数字

ぼくがぼくであるために

 どうもかーびぃです。

 

 人間たる者、一度くらいは自分の人生の意義について考えたことがあるのではないかとおもう。人間はいやおうなく自分の立場に縛られる。男として生まれた人間は男として生きざるを得ない。これは例えば心の性や性的指向がマジョリティと異なっており、そこに適合するべくして処置をとった場合でも同じことである。男性から女性へ性別適合手術を受けた人間は、性転換した人間としての立場・振る舞いを余儀なくされる。多かれ少なかれそれは間違いなくそうなのである。人間は案外自由が少ない。生まれ持ったカードをどうやって切っていくかというのがほとんどであり、新しいカードを引くことができる人間も、「新しいカードを引く」効果を持つカードを最初から持っていなければカードを引けない。それはものすごく理不尽なカードゲームだ。

 だが、仮に社会活動をカードゲームとするのならば、自分の有利なルールのある場所に行けばいいのである。もちろん、それもそういった効果のあるカードを持っていることが条件となる。逃げられる人間は、逃げられるスキルを持っているのだ。

 何が言いたいかというと、ぼくはそれらしい短編なら量産できるけれど、長編を書くために必要な「話の流れを組み立てる」というのがどうしようもなく苦手なので、そういった方向には向かないし、それが一番賞に応募しない理由なのだ。長編自体が向いていない。短編を無限につなぎ合わせたようなものしか書けない。というか、短編自体も話が完結しているかというとそうではないというタイプのものばかりで、つまりぼくの性質自体が話を区切るのがとんでもなく苦手なのである。昔からそういうところがあるしこれは例のアレなのかもしれない。

 

 人間が集まればそこに社会ができ、どんな社会でもルールが存在する。ぼくは小説を書き続けるために就職をしたようなものなのだが、それでいて小説で仕事ができるわけではなかったので、二刀流になることを余儀なくされた。自分では今の仕事は副業だと思っている。収入を得るためだけにぼくが用意した職業だ。

 だが、職というのは文字通り食いつなぐためのなりわいである。そこを勘違いしている人間がわりといる。というより、かつてのぼくもそうであった。食いつなぐということは、他人からそれを責任(お金=生活)をもって委託されるわけで、そこに仕事を果たす義理が生じるわけである。仕事を安売りすることは、すなわち自らの生活だけでなく、最終的にまわりまわって取引先の生活すべてをスポイルすることにつながる。だからこそ「プロ意識」というのが必要になるので、そこを踏まえたうえで社会に出ていかなければならない。そして、そこで得たお金は誰が何と言おうと自分のものであるわけで(たいていの人間は給与をもらう時点で税金を払っている)、何人たりとも文句を言うことはできないし、文句を言うべきでもない。

 

 ハラスメントを恐れる上司は、ただただ黙るという方策を知らない無能でしかないので、耳栓でもして出勤すればいいしそれでもだめならただの人間なのだから釘バットで百回くらい殴れば死ぬよ。

蜃気楼の先にあるものが恐怖と絶望だったとしても気づかないのが普通の人間ってわけ

 どうもかーびぃです。

 

 最近思わせぶりなタイトルにして中身が適当なことが多い。知るか、そんなもんかーびぃは知ったこっちゃないんだ。

 

 ここ2週間くらい、ADHDの症状がやたらにひどくなっている気がする。書類の深刻なミスがやたら多いし、制服を持って帰ろうと思ったのに忘れたり、薬を飲むのを忘れそうになったりしているのだが、しかし原因は何か特定できないのが恐ろしいところで、思い当たる要素が見当たらないのである。これが困る。解消のしようがない。解消のしようがないからさらにストレスが溜まる、そしてそのせいでミスが増える、この繰り返しだ。しかもこれから繁忙期で本格的に死ぬのでやばい。なにがやばいって全部やばい。

 進捗。あるようでない。長編は進まないし短編も微妙な進捗で、まだまだ道が遠く見えるし、これ下手したら秋に間に合わないんじゃね?とすら思い始めた。書きたい欲はじゅうぶんにあるのだけれど、書けば書くほど場面の進行が遅くなり、物語の推進力がどんどん落ちていく。ひとつところで地の文だけがひたすら書きなぐられていく感じ。一番よくないパターンである。ひたすら幻想的で美しい雰囲気の小説を書きたいのに、いざ書いてみるとそういう感じにはならなくて、ぼくはとことんその才能がないことを思い知らされる。透明感のあって美しい文章を書ける人間というのは多いようでいて実は限られている。感性の問題のようでいて、感性だけではなくて、本来であれば言葉にできない雰囲気を言葉の中に織り交ぜるというテクニックが必要になってくるからであり、まさにそれは行間を読むことができ、また行間を表現できる人間でしかできない。そして、行間を読むことのできる人間はぼくらが想像している以上に少ないので、そういった文章が大衆にもてはやされることはいまやほとんどない。なぜなら批評家が幅を利かせていないし、そうなったのは行間をあらわにする技法が実質すたれていったからだろう。人々はわかりやすい表現技法を好んだ。小説より漫画、映画よりテレビ、といった具合に。だから小説は売れるために「ラノベ」化していっているというのがぼくの妄想である。本当のところはどうか知らない。

 キメ打ちされた文章を書いて、そこに照準を合わせられるように誘導するという行為そのものに自己嫌悪を覚えるタイプの人間にそういう文章は書けない。その文章を軸として、すべてが透明化しているように見せかける構造というのが、全体を幻想的に見せるひとつの要因なのではないかとぼくは思う。書いてみただけ。

 それは諦めて別の方法を探すか、そもそもそういう文章を書かない、という手段も取れる。まあもっとも、今書こうとしているものにそういう雰囲気のもの自体がないので、それはありがたいというか、成長していないというか、つまりは楽に書けるはずなのである、比較的に。

 で、これから繁忙期に入ってくるわけだけど、この小説の進捗はどうするんだいっていう。まあいいか。

 誰かにとっての唯一なんて、なれたらそれにこしたことはないんだろうけれど、なったらなったでその人のすべてに縛り付けられてしまうから、そんな柵に絡めとられてしまうならぼくは誰にも必要とされたくないし必要とされようとも思わない。ほんの少しの間だけ、こっちを向いていてくれればそれでいいのだ。いや、本当はもっと欲深くて、ぼくが見ている間くらいはこっちを見ていてほしいというのが本音だけれど、それは醜いと自覚しているから期待はしないということにする。

 的な小説の書き出しどうよ。いかにもかーびぃの書き出しっぽくないですかね。