日本ごうがふかいな協会広報

日本ごうがふかいな協会の広報ブログです。

それはぼくを動かすエネルギー

 どうもかーびぃです。

 

 ぼくをうごかしているエネルギーってなんなんだろうと思うそんな今日この頃である。黒髪ロング一重まぶた微乳お嬢様系女子?たぶん違うと思う。そんな幻想なんて随分前に踏みつぶして河川敷に流されないように埋めておいたはずだった。

 

 まあ冷静に考えてでんぷんぢゃろ。

削れて丸くなっていく僕らは石なのか、歯車なのか

 どうもかーびぃです。ちょっとサボると本当に何も更新しなくなる。

 

 インターネット噺家ことササマツ師匠がご復活遊ばれたことは記憶に新しいが、かといってその話をするほどかーびぃとササマツ師匠の間につながりはない。しいて言えば生年月日がぴったり同じということくらいだろうか。そんなありふれた奇跡を愛の軌跡に移し替えてあわよくば籍とポコチンを入れてしまうようなスーパーハイスペックおじさんになりたいなーならなくちゃー絶対なってやる(なるとは言ってない)。

 

 最近症状がひどい。なんの症状?と思う人はかーびぃのメモ帳をしばらく漁ってみような、察するから。症状が悪化する原因を早く取り除くべくぼくは動くべきだったのだが、結果的には真逆の行動をとってしまった、いや、取らざるをえなかったというべきだろうか。かくしてドツボにはまってしまったぼくは創作活動はおろか日常生活の復帰までにもかなりの時間を費やすことになった。ようやくこのメモ帳を更新できるようになるまで回復してきたところである。やられるのは一瞬でも、回復するまでにはかなり時間がかかることを学んだし、そもそもやられた後のリソースでは回復に回すだけのものが残っておらず、結果的に削られないようにするのが精いっぱいというのも学んだ。学びが多い。そしてそういったことは貧困に携わったことのない人にはわかりにくいのである。

 

 最近聞くのは、一億総中流時代には普通だったことがいまや普通ではなく、一部の勝ち組だけが手に入れられる世界であるという現状であるのだが、よくよく考えてみなくても、その普通だったことが勝ち組だけのものになってしまったことがまさに停滞であり、普通ではない日本の後退っぷりを示しているわけで、どうにかして昔に戻ろうと努力していかなければ今後どんどん教育力は低下し、高度な知的労働ができない人間が日本を埋め尽くしてしまって滅びてしまうことはもはや明白に限りなく近いくらいに現実の延長として差し迫っているのである。けれどそこにじっくりと取り組む人はわずかだ。なぜか。金にも票にもならないからである。そもそもその問題をとらえられる人間がかなり少ないし、その問題が解決したとしても、自分へのリターンが少ないとみんなが思っているからこそ、これは解決しない。共有地の悲劇と似たような論理で先延ばし先延ばしにされ、おそらく滅びるその時まで先延ばしにされるに違いないようにぼくは思う。この国の老人たちがそこまでお人よしではないことをかーびぃはよく知っているのだ、だから問題を解決させるには障害となっている人間を排除していく以外にないだろう。

 などという犯罪的な文章を書いていると誰かに付け狙われるらしい。

深い森をさ迷い歩くだけのバイタリティなぞ等の昔に増槽よろしく捨てた

 どうもかーびぃです。

 

 母親に「いまさらゴジラの映画をあれだけ宣伝するのなんなんだ」という旨のことを言われてぼくは返す言葉がなかったのだが、しかし彼女はアオイホノオのドラマを見ていたから、「庵野監督が作ったゴジラだ」と説明するとなるほどとうなずくのであった。それほどまでに庵野秀明は大衆の中にしみこんだ名前であり、今や押しも押されぬビッグネームであると言って過言ではないだろう。

 関係ないがぼくは村上龍という作家が好きである。同じ年代で村上姓の村上春樹とは全く異なるタイプの作家であるがたぶん作品全体から漂う団塊世代特有のロクデナシ感は共通しているのではないかと思う。その中でも特にいいと思った作品が「五分後の世界」で、その結末はぐっときた。非常にあっさりとした、しかもきちんと終わっていない(事実この小説はシリーズ化しており、続編が存在している)のだが、その幕の弾き方が非常によい。次を読みたいと思わせながらも、これで一区切りさせるということをきちんと両立させている。

 

 何が言いたいかというとゴジラは見たいしエヴァみたいなの書きたいし原稿が進まないってことだ。

太陽と空のあいだにそびえる空間を縮めるためにできることは限られているという絶望

 どうもかーびぃです。

 

 人間には生まれ持った境遇や特性によって、その人ごとの才能というものが存在する。それが例えば「最高にうまいカップ焼きそばを作る能力」であったり、「ポリウレタン製の薄いコンドームをものすごい速度ではめられる能力」みたいなほんの些細な、しかも場合によってはまったく発揮されることがないまま一生を全うしてしまう場合すらあるようなものであっても、きっとどんな人間にもなにかしらの才能が潜んでいるのである。

 また、同じことをやらせても十人十色の結果があり、どれがよろしいかという方向性を定めるのであれば当然到達度で序列が生まれる。人間にはその序列を認識する能力とその格差を是正するように労力を費やせる力がある。つまり、手数によっては持って生まれた才能による格差をひっくり返すことも可能であるのだ。逆に言えば、例えば本当にプロの世界で勝負をしていく場合、才能が十分になければ、他人よりもずっとずっと多くの手数をかけなくてはならないうえ、才能が十分にある人間から常に手数でアドバンテージをとれるように努力する必要があるのである。

 どういうことか。つまり、才能がある人間が手数をかければ最強であるということと、結果的に才能がある若手にその分野で勝つこと自体が非常に難しいということである。若いということはそれだけで手数を容易に増やし得るボーナスステージである。まず自由に使える時間が年長者より多くなりやすい。そして吸収力も高い。だから、才能のある若手はその世界で暮らしている年長者にとっては脅威となりやすいのである。自分の生活を脅かす存在となるのだから当然だろう。だから無能ほど若手潰しをしやすい。なぜならそれによって彼自身が生きている世界そのものの縮小を免れていないことに気が付いていないからである。凡人め。

 

 ねむい。

目の前に広がる曇天の行く末を決めるのはほかでもない僕らなのだとしたら

 どうもかーびぃです。口コミだろうがステマだろうが、どんなことであっても発言し続けるということが重要なのではないか。そんな風に最近は思う。土俵の上に最後まで立ち続けられる者だけが先に進むことができる的な。

 

 ぼくの知らないうちにポケモンGOがいろいろなところに波及している。数年前に流行った「セカイカメラ」なんかとはケタが違うAR(拡張現実だったか)を利用したスマホアプリということと、任天堂が満を持してぶち込んできた強烈な大作でスマホゲーム業界は激震しているということはなんとなくわかる。しかしながら、実際にやってみればわかるのだが、技術としてはさほど最先端というわけでもない。それに、想像不可能なほどイノベーションを起こしたわけでもない。だからこそ、ここまで波及しているのだろうと思う。

 いつも思うのだが、この国は基本的にお役所は「事後処理」である。想定されたことに対してはマニュアルができていて、それ通りに行動することばかりを考えていて、対応不可能なことが起きた場合は初動が遅れる。なぜかといえば、不測の事態に対応できる人間と決定権を持っている人間が別のポジションについているというのが主な要因である。現場の人間の中では臨機応変に対応できる人間がきっと少なからずいるのだが、決定権を握っている管理職は必ずしもそうとは言えないのだ。それに初動の遅れと何とも思っていない(機会損失ととらえない=機会費用が損害費用に置き換わりにくいから)ところがある。これは単に役所だけではなくて大企業にもままある体質である。要は時間と経費に関してあんまり関心がないのである。人件費は気にするくせにね。だから規制という手段しか打てないのだ。先回りすればわざわざ禁止や制限をしなくても、流れの中である程度誘導できるものを、そうではなく足並みそろえてよーいどんでやろうとするから、その方向には流れないように規制を敷く必要があるのだ。しかし、規制を出すと、線引きが難しくなる。法の支配というのはそういうものだ。線引きをジャッジする人間が必要になる。そしてたいていの人間はその専門性を自分でもジャッジできると思っている。大きな間違いなのに。

 まあそんなことはともかく、日本から金がなくなっていくのは悲しいことだし、もはや日本企業からも相手にされなくなったこの国はいよいよタイタニック号のように派手に浸水し始めたのかもしれないなどと思っているわけで。

 都知事選までの顛末だってそうである。舛添前知事のちょろまかしたお金の出どころとレベルは、当然褒められるものではないにしろはっきりいって非常にチンケ(まあそれはそれでこの人本当に小物政治家感すげえなとは思ったのだが)で、それを一部の都民とエンタメ性とコンテンツ力を敏感にかぎ取ったハイパーメディアクリエイター的なおじさんたちが寄ってたかって面白おかしくエンターテインメントに仕立て上げながらこき下ろすという、まさに日本にありがちないじめエンターテインメント的なシナリオで引き下ろすと、今度は50億だか100億だかを都の税金をかけてその選挙をするという。これだけでも十分な損害(しかも、損害を被るだけ被った上で生まれた経済効果はまさしくチンケだろうと推察できる)なわけだが、そんな座ったら負けみたいな不安定極まりない都知事の椅子にエリートおじさんならびにスーパーハイスペックおばさんが腰かけるはずもなく、一世一代の大勝負に出るような崖っぷち面白人間ショーみたいになるのはまあもうしょうがない。だってそうさせちゃったんだもん。でもそうさせちゃったのって都民の人じゃないですか。そりゃしょうがない。ある種の自業自得である。「自分は違う」という都民の人もいるかもしれないが、どうにかしてこの流れを変えようともしなかっただけでも十分業を受けざるを得ない気がするぞい。かーびぃは他人に非常にキビシーのだ。意思表明をしないことは、ノイジーマイノリティに味方するのと実質的には同じことなのだ。だからうるさい人間にはちゃんと声で殴る必要があるのである。でなければ本当に死んでしまうぞい。かーびぃくらいの根性ひん曲がった人間になると、「黙ってる人間はみんなぼくの敵である」くらいには思うわけで、でもつまるところ実際そう思われても仕方がないくらいには意思表示をしないことは危険なのである。ダイナマイトを体に巻き付けたまま激戦地を駆け抜けるようなものだ。ただ死にやすいだけではなく、周囲を巻き込むところがえげつない。さらに、この手の人間はそういう状態であることに気づいていないのだ。つまり防衛手段すらない。最悪だ。

 

 めんどくさくなった。