日本ごうがふかいな協会広報

日本ごうがふかいな協会の広報ブログです。

戻るつもりがないのにパンくずなんか置けるわけがない

 どうも、ひざのうらはやおです。

 

 例によって例のごとく、これも何らかのリハビリ。

 

 今回は細切れに、思ったことを淡々とまとめていく形式にしたい。今まで以上にまとまりがないが、オムニバスみたいなものだと思ってほしい。

 

 ぼくは継続的に記録をとるということを極端に嫌う。おそらくADHDとして生理的に受け付けないところがあるのと、ぼくの記憶そのものがかなり恣意的に形成されているという自覚がはっきりとあるせいなところがある。

 つまり、下手に記録を取ってしまうと、ぼくの「記憶」と整合性がとれなくなってしまうのだ。ぼくはぼくに対しはっきりと嘘をつくし、それをぼく自身の手によって暴かれるのを最も嫌う。ということに最近気づいた。なかなかに業を背負っているような気がしなくもない。ぼくが他人につく嘘に対して全く心が痛まないのは、そもそもぼくはぼく自身に対してあまりにも多すぎる嘘をつき続けているからなのだろう。

 本当のことを言わない技術に関しては、少なくとも同世代の人間のなかでは抜きんでているように思うし、それが少なからず創作に出ているように思う。

 

 首都圏(関東地方+山梨県)のサンマルクカフェの店舗をひとつずつしらみつぶしに訪れるというサンマルクチャレンジを自分に課してからもうすぐ10か月になる。客観的に表現すれば趣味以外のなにものでもないし、だからぼくは他人には趣味という形で(上述した通り)平然と嘘をつく。ただぼくはこれを趣味とはあまり考えていない。だいいち全然面白くない。サンマルクカフェはコーヒーチェーンだ。当然どの店舗もほぼ同じラインナップだし、内装だし、なんなら立地だってほとんど同じだ。一種のお遍路のようなものである。それはまさしく巡礼だ。サンマルクカフェの神があの夏の日、突然「かれ」に囁いたのだ。「とりあえず、サンマルクカフェを巡るのなんか面白そうだからやってよ」と。「かれ」も面白そうだと思ったのだろう、気が付いたらぼくは青春18きっぷを手にして中央線に乗っていた。中央線沿線はサンマルクカフェの店舗がかなり多い。

 ただ、この時ぼく、というか「かれ」は深く考えていなかったのだろう。サンマルクカフェの立地方針は非常に徹底していて、それは「かれ」の想定外だったのだろうと思う。つまるところ、郊外、もっと言ってしまうと片田舎のイオンモールにかなりの数分布しているということに、初めて数日で気づいた。イオンモールである。大貧民負けてマジ切れ、パスタ作ったお前に一目ぼれみたいな方々が家族の絆を密にして休日になると足しげく通うであろう、片田舎の総合歓楽施設であるところの、あのイオンモールである。最大の欠点が、駅から遠い。そしてぼくは自動車の運転が決してうまくないうえに、ぼくどころか家族誰も自動車を所持していない。浦安で車を持っていても金がかかるだけなのである。

 それでようやく、昨日の話になるのだが、群馬県の、それでも入り口に近い都市に行くのだって、電車を何回も乗り継いでいく必要があった。具体的に言うと太田と伊勢崎で、どちらも東武鉄道がカバーしているし、なんと太田までは特急が通っているといので、東武特急は特急料金がそれほど高くないから興味があってついでに乗ってみることにした。JR東海道線のグリーン車と比較してしまうのは車両的にあまりにもかわいそうなのでしないでおくが、まあ料金としては妥当だし、レトロな車両にしてはかなりスピードも出るしとてもよかった。ただ例えばデートに使うかというとなかなか微妙である。もっともぼくはかなりの見栄っ張りなのであるが。お察し。

 しかし、延々と東武伊勢崎線を、北千住から先を乗りとおしたわけであるが、やっぱり景色の移り変わりを見るのが楽しい。北越谷から複々線が複線に変わり、舘林から単線に変わり、それでも太田につくころにはいつのまにか高架になっているし、伊勢崎にはちゃんと車止めがあるのもなんだか少し感慨深かった。

 また、利用客が思っていた以上に多いことにも驚いた。あと、ぼくと同じような経路でイオンモールに行くのは、小中学生かもしくは後期高齢者のようなひとばっかりで、車中がすごく極端な年齢層になっている中、アラサーと呼ばれる年齢層のぼくは非常に浮いていた。おそらく、ぼくと同年代の人間はみんな家族を引き連れて自動車で乗り付けるというのがスタンダードなのだろう。そりゃそうだ。買い物にいくわけだし、駅からは遠すぎる。スマーク伊勢崎なんかちょうどバスがない空白時間に着地してしまい、やむなくタクシーを使ったのだが、2000円近くかかった。距離にしておそらく4キロ前後といったところだろう。歩けば1時間かかる。

 たかだかスマーク伊勢崎のサンマルクカフェに行くためだけにタクシーに2000円使うのはもうなんというか独身男性の極みみたいな行動だが、ぼくの時間外の時給はおおよそ2000円程度であることを考えると、歩いて1時間かけるのとまあどっこいどっこいで、体力を消耗しないだけマシだなと思ったし、事実ここで1時間かけると北千住のサンマルクカフェをつぶすことが不可能になってしまっていたので、必要経費となるのは明白だ。ただいくら必要経費だからといってぼくの財布が痛まないはずがない。というか、実際めちゃくちゃ痛い。めちゃくちゃ痛いのだが、しかしすでにサンマルクカフェの飲食代だけで4万円にとどくであろう金額を使っている人間としてはもうなんというか、何をいまさらである。それに、おそらく今後タクシーを使うことはまずない……と思いたい。ぼくにとってサンマルクチャレンジは、修行であり、創作としての何かを取り戻すために必要な、「かれ」の遺したふたつの業のうちのひとつなのだから。

 

 もうひとつは、もちろんシーズンレースである。先日、というかまさにこの特急りょうもうの車中でぼくは静マル2シーズンに登録された最後の作品を読み終えた。静マル2シーズン、すなわち、昨年開催された「第2回静岡文学マルシェ」で得た作品群の評点化である。その最後に配置された作品に、ぼくは全身を殴られたような気分になった。その作品は、「ある規則に基づいて、短編を綴ったものをまとめた」短編集だった。書き手にその意図があったかどうかは不明であるが、ぼくが読む限りでは、それは極めて写実的な創作的記録であるかのように思えた。そこに並んでいた作品群のひとつひとつが、ぼくにとっては極めて強い殴打であるかのように感じた。

 上述したとおり、ぼくは記録をとることが不得手であり、そもそもするモチベーションがない。けれどそれは自らにとって都合の良い記憶を創り出すためにあえてやっていることであった。実際、ぼくは5年以上の長期的な関係を、血縁関係を除いた特定の個人と結んだ記憶はない。今知り合っている人は5年前には知り合っていなかったし、逆に5年前に知り合った人間で今も継続的にコミュニケーションをし、密接なかかわりを築いている者はだれひとりいない。

 だから、これほどまでに精緻に、記憶と記録をすり合わせるかのように丁寧に、何かを祈るように描かれていたそれらを見て、ぼくは本当に声が詰まった。かれの作品は、とかく文体、特に風景描写に関して極めて精度が高い。それだけに、場としての重みがありありと伝わってきて、読み終わった後も太田につくまで何もできなかった。

 その作品は、シーズン2位となっているので、後々記事としてしっかり書かせていただくつもりである。乞うご期待。

 

 上述した中で、じつはひとつだけ例外があることに気づいた。ただ説明するのが面倒なのと、プライバシーにかかわることなので割愛する。お察し。

 

 最近性的な夢をよく見る。いわゆる淫夢みたいな、自分の欲望がストレートに表現されているものであれば、まだあきらめもつくというか、納得もできるのだが、なんだか女性からセクハラされるみたいな、とにかくぼく自身にとって極めて不快なものばかりで、すくなくともぼくの願望では決してない、と断言したいような内容のものばかりだ。これもプライバシーにかかわること、またこのブログの読み手に当事者がいないとも限らないので割愛する。

 

 エッセイを出した時に、2つの文体をぼくは使い分けた。ひとつは、あからさまに虚構を押し出したような、いわばラジオパーソナリティ的な語り口を非常に意識したもの、これは「まんまるびより」の主要構成となっている。もうひとつは、それを極端に排した、このブログのような文体で、実のところこちらの方が脚色が多いのだが、そう思わせないために技巧のほぼすべてをこらしたようなもので、こちらが「しん・まんまるびより」にあたる。エッセイを書くことによって、人となりが漏れ伝わってしまうのではないか、とぼくのツイッターのあるフォロワーがつぶやいていた。もちろん、伝わるだろう。けれどそれは表現を行えば当然伝わるであろうことが伝わるだけの話で、かれがどういうエッセイを書くのかぼくにはわからないが、極端に状況や人物を限定しなければ誰かしらからそしりを受ける筋合いにないのではないかと思っている。ぼくはかつて、ある女性に、その女性について書かれた小説だけを集めた作品集を贈呈したことがある。もちろん、ここまでやってしまえばそれは何かしらの非難を受けるに違いない(実際今から思うと非常に気持ち悪い行為であったし、本当にどうしようもない人間だったなと後悔も反省もしている)けれど、そうでないのであれば、むしろ虚構でしっかりと構成されたエッセイに、さしたる同人的な魅力はないのではないかとぼくは思う。ありのままを書こうと思ってたぶんちょうどいいくらいなのだ。

 エッセイというところでいうと、伴美砂都氏のNoteの、本当に日記のような文章は非常に日常的で、それでいて心情表現が豊かで、さすがだなあと思っている。ぼくも「しん・まんまるびより」でそれを目指した。ありのままを、ありのままに書くには、当然であるがありのままではいけないわけである。その妙がするりと通り抜けているというか、全く意識せず書き手の視点と、それを取り巻いている環境が想像できてしまうというところ、そしてそれらが(書き手を知っているいないにかかわらず)ある程度人物像がぼんやりとおぼろげに浮かぶというところが本当に見事だし、伴氏の豊かで確かな文才がいかんなく表現されているので、機会があれば読んでみてほしいとぼくは思う。

 

 回線関係を整理して、ゲームする環境を整えた。実家からテレビがおさがりされたことが主な理由である。諸事情でネット回線のプロバイダを変更し、その解約手続きと、諸事情で必要になった中継器、HDMIのマルチタップなどなどもろもろ合わせると2万円くらいの出費であるが、うち1万円はキャンペーンのキャッシュバックで充当されるので、実質1万円の出費とみなせる。これで昨日と今日だけで2万円くらいの地味に痛い出費があったことになる。倹約できないタイプの人間なのは自覚しているので、できるだけ浪費しないようには心がけているのだが、なかなか難しいと思った。それでも去年は銀座に寄るごとに万年筆を買っていたから、まだそれよりはマシ。

 

 などと書き並べているが、来週には簿記の試験がある。それでいて、テキストを1回読んだくらいのことしかしていない。なにしろ覚えることが多すぎるのである。しかし職場には国立大学の経済学部を出ていることがバレているが、ぼくがADHDであることはバレていないので、簿記くらい簡単でしょ、むしろなんで今まで取らなかったんだよ、っていう空気が流れていて、到底実は一回受けて落ちているなんてことは言えないし、実際今回も合格する気がしない。ちなみに2級ではない、3級である。だから余計に厄介なのだ。理屈は簡単だけど、「え、なんでそんなめんどくさいことわざわざやるの?」と思ってしまってその先に進めないのである。学校の教科ではこんなことはありえなかったし、逆に資格試験となるとこうなってそこから先全く手につかないことがよくある。生まれて30年近く、ぼくは勉強がどちらかというと得意だと思っていたのだが、多分極めて苦手なのだろうと察した。言っちゃ悪いが3級は高校生が受けるようなものだ。そしてぼくは大学をすでに卒業している。しかもそこそこ名前が知られている国立大学の、経済学部。普通は不合格だったら相当手を抜いていたと思うに違いない。でも、はっきり言ってこれだけの、全然興味がわかない事柄を憶えられたためしがないのだ。室町時代鎌倉時代の歴代将軍の名前を憶えさせられているみたいで、全然頭に入ってこない。実はわりと焦っている。

 ま、落ちても減給とかじゃないから、別にいいんだけど。

 

 テキレボのことで物申そうかなとか思っていたけど、全然テンションがちがうだろうし、今これを書くのもなんだかなあと思うし、まず静マル2シーズンをどうにかしなくちゃなあと思うので、この辺でやめておきます。

その瞬間から世界は狂う

 どうもひざのうらはやおです。

 

 リハビリがてらの記事を、当てもなく書いていく。

 

 文フリ東京で、多くの人にいろいろなことばを貰った。その中で、それなりの数あったのが「ゆっくり休んでください」ということばだった。

 ありがたくいただきたいのはやまやまだが、あえてここで書いておく。

 ぼくは休むつもりは毛頭ない。現に、文フリ東京が終わってからのぼくは、字数ベースでいえば「平成バッドエンド」の原稿を書き、「かれ」が消滅した3月初頭を上回るペースで書いている。それでいながら、全然先に進めていない。

 つまり、発表できるようなクオリティの文章を書くことが出来なくなっている、というのが本当のところである。

 ただ、「〇」については、そういった状態のまま、書き続けて、あまりにも見苦しい部分だけどうにかして、残りはあえてそのままにしておこうと思っている。「かれ」を失ったぼくが、「かれ」に替わる小説構成手段を得る前に、どんな文章を綴っていたのかをどこかにきちんと残さなければならず、それはプライベートな条件下であってはならないと思ったからだ。ぼくはぼく自身に対して最も嘘をつくし、ぼくはぼくを最も騙す。

 そういうわけで、「〇」はぼくの出す同人誌の中でもとりわけ厚みのあるものになるのではないかと思う。現に過去の作品をまるごと収録する必要がいくつも出てきているし、ここまで全体の4割ほど書いてきたところだが、既に「平成バッドエンド」のサイズを超えてしまっている。このままのペースで、さほど分量を削らないとなると同作の倍以上になる計算だ。まあ、さすがに500頁を超えるようだったらいろいろと考えなくてはならないけれど。

 何度も書いている通り、ぼくは書かないでいるということがすでに難しくなっている人間である。だから書くのをやめるということはおそらくないと思う。ただ、それが過去のひざのうらはやおと照らし合わせてほかの人が読むに耐えうるものかというのは吟味すべきだし、仮に吟味していった場合、当面の間同人活動そのものは休止すべきであるという結論になったので、数年単位のお休みをいただくことにしたまでだ。現に今もこうして書いている。

 特に「令和イクリプス」は、おそらく過去のぼくであればすでに本文の半分ほどは書いていただろうというくらいにはイメージがはっきりしてきているのだが、それらをプロットに落とし込むことすら今は出来ない。本当に、小説を構成するための力がごっそり抜け落ちたようになってしまっているのだ。ここをどうにかしないことには、期日があっという間に迫ってきてしまう。とはいえこれこそ感覚でやってきたことなので、なかなか取り戻すのは難しいとも思う。

 

 しかし仕事が思った以上に忙しいので、とにかくできることを必死でやっていくだけで精いっぱいだろうと思う。

 

 そうそう、6月9日(日)は文学フリマ岩手である。ここには先日の記事で発表した「煤煙~浦安八景~」および「おもちくんメソッド 同人編」の委託先であるドジョウ街道宿場町が出展しているので、もし行く予定のある方はチェックしてみてほしい。

 どちらもそれなりのひとに手に取ってもらえるようなものとなっているが、特に「煤煙~浦安八景~」はぼくの代表作たりうるもので、弊社最大頒布数を記録しているエース作品である。また、ご当地小説(ある意味)という意味でも文フリ岩手の雰囲気に溶け込みやすいのではないかと思う。代表の今田ずんばあらず氏のツイッターに注目してほしい。

 

 がむしゃらにでも走らなければ、奪われた脚力は戻るはずがない。

墓標代わりにゼロキロポストを目指して

 

 どうも、ひざのうらはやおです。

 

 先日記事を書いたが、ぼくはまさに「存在しない読み手」に囚われていた。今もそこから脱却しきれていない自分を感じる。しかし、それはもう済んだことだ。しばらくぼくは新しいものを出せる環境にない。

 

 さて、すべての活動が終了し、休止期間に入ったのであるが、先日のイベントに惜しくも参加できなかったり、実は作品を楽しみにしていたのだがぼく自身と顔を合わせたくなかったり、その他さまざまな事情で、ぼくの作品を読みたいというひとは一定数いるものと思われる。また、休止する旨を受けて、ありがたくも委託頒布を引き受けてくださるサークルさんがあった。ここで、休止期間中における弊サークルの取り扱い頒布物について、整理し、まとめることとする。

 

委託頒布物

 以下の作品については、ありがたくもそのサークルの出展イベントにおいて頒布することを引き受けていただいたので、委託先サークルのみ取り扱いを行うものである。

 なお、取り扱いサークル名および代表者名については敬称略とする。

 

 1.「煤煙~浦安八景」

   サークル「ドジョウ街道宿場町」(代表:今田ずんばあらず)

 

 2.「おもちくんメソッド〜創作同人活動に行き詰った人のための、明日を生き抜くヒント〜 同人編」

   サークル「ドジョウ街道宿場町」(代表:今田ずんばあらず)

 

 3.「平成バッドエンド」

   サークル「デスポリンキー食堂」(代表:にゃんしー)

 

 4.「ラブホテルアンソロジー 満室になる前に」

   サークル「白昼社」(代表:泉由良)

 

 そのため、上記4作品については、通販を行わないものとする。なので、これらの中でほしいものがある場合は、そのサークルの出展状況などをチェックしていただければと思う。どのサークルも関東および関西どちらにも出展経験・出展予定があるし、ぼくがこれまで出ていたイベントに実際に出展している方たちであり、ぼく個人として信頼できると思ったので、委託という形態は本来やらない信条であったのだが、今回お願いしている。もし、参加したいイベントに上記のサークルが軒を連ねていたら、チェックしてみてほしい。

 

通販

 

 それ以外の作品で、ちょっと特別な事情がある「順列からの解放」を除いたすべての頒布物については、一部条件や頒布価格などを改訂し、「booth」にて通販を行う。

 ただし、これらは在庫がある限りとし、在庫がなくなった時点で終了とする。

 当該ページは下記の通り。

hizanourahayao.booth.pm

 なお、当方これから数日がかりの泊まり出張に出たり度重なる残業があったりと非常に不安定な仕事スケジュールとなるため、納品についてはかなりまちまちであるというところを申し添える。ページにある通り、15日以内の発送という非常に長い納品期日になっているのはこのためである。気長に待ってほしい。

 そういえば包装用の袋が切れかけていたのを思い出したので、もしこれらの作品が欲しいという方はとりあえず6月以降の発注をしていただけると大いに助かります。

 あと、これらはすべて安心boothパックというのを使ってみる予定。実はあんまりよくわかってないんだけどヤマトの営業所に行って送り状を発行するのはよくやっているので、それでなんとかなるんじゃないかと思う。

 どうしても欲しいという方向けであんまりおすすめしません。なぜならぼくが慣れていないから。

 

 以上が、休止期間中にぼくの同人誌をやりとりする方法である。

 

 また、ぼくはできることなら再び復帰したいと考えている。ただし、それに関しては復帰すべきときが来ないことには意味がないと考えているし、事実現時点で小説を書くスキルはまだまだ復活したといえるレベルには到底達していない。そこで、下記の作品を、ぼくが定めた復帰日までに初稿完成以上にすることを課題とし、それができなければ廃業しようと考えている。

 ぼくが定めた復帰日については、ここでは明言しない。ツイートの中にいくつかヒントがあるし、実は「平成バッドエンド」のとある部分にそれについてのメッセージを暗号として残してある。どうしても気になるようであれば参照いただければ幸いである。一応、意味があるし、けれど他人にとっては何の意味もない日である。

 しかし、復帰課題作については、今後の予定とぼく自身の決意表明のために、ここで記しておきたい。なお、タイトルについてはプロジェクト名であり、正式なタイトルではないことを申し添える。

 

 1.「〇(ゼロ)」

 ノンフィクション風の回顧録のようなものを想定している。ぼくはいかにして「かれ」とであったのか、「かれ」はなぜ小説を書くことに取りつかれたのか、「かれ」とは一体なんなのか。それを、ぼく自身の記憶とぼく自身の原稿(未発表および未完成も含む)を参照し、時に引用を交えながら、ここまで行ってきた同人活動についても振り返っていく。先日の記事にも予定部分の引用があったとおり、この作品に関しては初稿を出来た部分から一定の段階で公開しようと考えている。

 「かれ」は身体をもたないし、記録もない。ぼくの中には「かれ」が残した小説と、その記憶しかない。

 だからこそ、ぼくは小説をもって、「かれ」を弔いたい。

 この作品は、その墓標となることを想定している。そのため、この作品の完成なくして、ひざのうらはやおの復活はありえないと判断し、課題作とした。

 

 2.「現石(ゲンセキ)」

 鉱石トリビュート短編集の第2弾である。弊サークルの中でもかなり好評を博していた「幻石(ゲンセキ)」の続編にあたる。存在しない鉱石のアンソロジーであった「幻石」と異なり、この短編集は実在する鉱石をモチーフとした、過去作品のリメイク集とするつもりだ。これらは収録予定作の初稿をすべて完成させた時点で「初稿完成」とみなす。

 「幻石」登場時から刊行が望まれていたこと、また、当初からコンセプトを変更し、そこに「過去との対峙」を含めていることから、今後活動を継続するためには避けて通ることのできないものであると判断し、課題作とした。

 

 3.「令和(レイワ)イクリプス」

 タイトルから想像できる通り、最後の新刊であった「平成(ヘイセイ)バッドエンド」の対をなすものである。連作短編集で、SFを基軸とした作品集を想定している。「平成バッドエンド」である種のカタストロフを描いたわけであるが、こちらはその一歩先に進んだものを、淡々と描いていきたいと考えている。これから先、この社会はどうなっていくのか、ということに関して思いを馳せた、そんなものにしたい。

 実のところ、「平成バッドエンド」でぼくは書ききれていない部分が多くあった。それを補完するための作品を復帰作として出したいので、こちらも課題作とした。

 

 これら、3作品について当面は執筆を行っていく。とはいっても、おそらくこの半年くらいはまともに原稿を進めることすら難しいだろう。全力のぼくが、この3作をすべて書くとしたら、おそらく半年くらいかかる。よって、これらを完成させるということはなかなかにハイリスクであることがみなさんも感じられることだろうと思う。

 しかし、そうでもしないかぎり、ぼくはおそらく自分の命すらもつなぎ留められないのではないかという気がしている。

 このメモ帳を継続的に読んでくださっている方は頻出となるだろうが、とどのつまり、ぼくは小説を書かなければ生きられない人間なのである。かつて、書かないで過ごすという生き方を探したことがあるが、できずにここまでのろのろと生きてしまっている。しかし、書き続けるからには、生半可なものを書くわけにはいかない。それは「存在しない読み手」という生易しいものではなく、他ならないぼく自身の強い要求による。ぼくはぼく自身を取り戻すことすら容易ではない。それは、そもそもぼく自身に存在する自我が希薄で、形のない氷みたいに、輪郭があるようでない冷たいなにかだからだろうと考えている。けれど自我が希薄であるということは社会的に無防備であることと同義である。だからぼくはそう思われたくない一心で、ここまで生きてきたのだろうと思う。「存在しない読み手」に囚われたのは、おそらくそれを見抜かれた結果だろう。

 それを脱しない限り、おそらく上記3作品を書くことは難しい。

 逆に言えば、これらを書いたとき、ぼくは少しでも現状を脱しているのだと信じたい。そうすることによって「存在しない読み手」に対抗することができるのであれば、それはやるしかないのである。

 数年ののち、これらを携えてかえってくるぼくを、ぼくが一番期待している。

 

 だからどうか、安心して待っていてほしい。

 

 

「存在しない読み手」と「わかりやすさの磁力」について

 どうも、ひざのうらはやおです。

 

 昨日、第28回文学フリマ東京が開催されました。これにて、ぼくの活動は休止期間に入ります。立ち寄っていただいたみなさん、ありがとうございました。そして、忙しくて立ち寄れなかったみなさん、またいつかお会いしましょう。さようなら。

 

 今回は、速報値で総頒布数86部を、実数で96部を記録し、前回までの記録である48部(テキレボ8)の2倍となる実績を残した。最後のイベントということもあり、今まであまり訪れることのなかったひとや、中には文学フリマなどの同人誌即売会そのものが初めてというひとにも来ていただいた。ひとりひとりにありがとうと言いつつ、しかし欲を言えば、最後であり最大のイベントでもあって、運営発表では5000人以上の来場があったというこの地で、ぼくは100部以上の頒布をしたかったし、それを見込んで搬入をしていたから、少しばかり無念だ。

 去年の秋、第27回文学フリマ東京では、搬入さえ潤沢であれば50を超えられたのではないかと思うほどの人出だったし、勢いがあった。ひとえに新刊であった「煤煙~浦安八景~」が十分な数を用意できず、午後2時を迎えることなく、つまり前半時点で完配してしまったのが災いし、それ以後の方がずっと人出があったのに伸びなかった。その反省を生かし、また前回の勢いを超えていきたいという思いがあったので、ぼくは新刊「平成バッドエンド」を含め全部で300部、段ボールにして4個口を搬入するに至った。島中である。実際隣近所にこんな搬入の仕方をする人間はいなかった。あたりまえだ。常軌を逸している。しかも実際、在庫の半分以上は返送しているのである。もちろん、そうでなければいけなかったから、やったまでなのだが。

 この数字を多いと思うか、少ないと思うかは経験や感情などに左右される。あえていえば、先程も述べたように、ぼくの実績としてはきわめて多い数字だし、文芸小説界隈で同人誌の頒布をしている人間なら、普通はぼくと同じような感覚になると思う。

 合同サークル時代から足かけ6年、大学時代のコピ本制作から含めると足かけ9年やってきたことになるが、先日のイベントまで、一回で50部を出したことは一度もなかったし、さらにいえば、ぼくがこうして「シーズンレース」などの企画を始めた2年前の水準では、そもそも10部を出すことすらほとんどなかった。しかし、先述したように、ぼくはこの96という数字を少ないと感じた。それは、ぼくが活動を休止するということで最後の機会にと訪れてくださった方の分や、ぼく自身の広報や告知の能力、また(少し傲慢な部分ではあると自覚しているがあえて書くと)ぼく自身の書き手としての実力(それはひとから認められる、という意味である。ぼくが認めているということではない)を考慮すれば、十分に3桁の頒布に到達することが可能であると考えていたからだ。

 結果として、それは間違いだった。後述する文章から曲解されても困るのでここで明確に書いておくが、これはイベントのせいではない、ぼくの全力が、ぼくの期待に負けたというただそれだけの事実で、ぼくの全力は「こんなもの」だったという、それだけのはなしなのだ。だから、非常に悔しいし、悲しい。「かれ」を失った代償はぼくの想像を絶していた。それについては長くなるので、別のところで書きたいと思う。


  休止するついでに、今まであまり語ることのなかったことについても少し書いていきたいと思う。ここからしばらくぼく自身、もしくはぼくらのことについて書かせていただきたい。


 ぼく、もしくは、ぼくらは自分の中での考えがまとまらないうちに決断をし、あとでそれがどういう考えのもとでなされたかを考えて生きている。だからこれから語ることは正直な話時系列的には正しくないのだが、思考系統の時系列としての整合性を優先して、あえてそのまま書いている。実際には考えながら書いていたということだけ記憶していただければと思う。


 ここまで、このメモ帳を読んでいる人のほとんどは、ぼくのことを全く知らないか、「シーズンレース」とかいうよくわからないシステムで同人誌を評価しているひとという風に思っているかのどちらかであろうと思う。なぜそんなことを始めたのか、疑問に思うかもしれない。非常に端的な答えを提示すれば、そんなことをする理由はただひとつ、ぼくの小説を、ぼく自身の手によってひとりでも多くの、必要とすべきひとに届けるためである。それ以上の理由はない。それ以外はすべて、副次的なものである。
 2年前の秋、ぼくは短編集「順列からの解放」を発表した。これは執筆に18ヶ月、構想を含めると24ヶ月と、当時の自分にしては異常なまでに時間がかかった短編集であった。それだけ時間がかかったことの主な要因は、巻末作「春なのに工事中」の執筆の進捗だった。いくら書いても終わらない。予想字数をかなりオーバーしているのに、いっこうに終わりが見えず、それでもただ場面を進めることができずに一進一退しながら、なんとか秋の文フリ東京にギリギリで間に合ったという作品だった。作品を読んだ方はわかるかもしれないが、これは当時のぼくの心境をひたすらに吐露した、ひざのうらはやお的私小説のスタイルを確立した作品になった。それ以外にも、この「順列からの解放」に含まれている各作品は、どれも現在のぼく、あるいはぼくらの主要スタイルの端緒となっている。それに関しては当時自覚はなかったが、それでも当時は別の意味で確実に手応えがあったし、最高の出来になったことを自負していた。しかし、初動はわずか4部だった。

 今となれば思うが、当時の規模からすればさほど悪い数字ではない。けれど、その前の作品(そのタイトルはあえて割愛する。長すぎるから)よりも少なかったことにぼくは衝撃を受けた。自分の最強であると認識し、確信したはずのものが、前作を超えるどころか、下回っていたことを受け入れられなかった。

 数字というものは、それ自体はなにも示さないため、一見するとたかが数字と思われがちであるが、明確で具体的な証拠として、あるものは帳簿に、またあるものはデータに、それ以外のものはだれかのこころの中にはっきりと残ってしまう。この場合、残ったのはぼく、あるいはぼくらのこころの中だった。あのとき、ぼくは明確に活動をやめようと思った。けれど、やめることができなかった。すでにぼくは、小説を書くということをやめる代わりの行為を探すことが難しくなってしまっていた。だからぼくは、小説を書くことをやめることをやめた。

 「順列からの解放」という作品をもっとよく知ってもらいたかった。これは確実にひざのうらはやおのターニングポイントとなる短編集で、すでに「V~requiem~」もプロットのほとんどを作ってしまっておりあとは書くだけであったぼくは、なぜか根拠もなくこれからどんどんと「強い」小説を書くことが出来ると思っていた。だからぼくは、よりこれらの作品を取ってもらうためにどうすればよいのかを考えた。

 すぐに思い当たったのは、どれだけいいものを作ったとしても、それがほかの人にいいものであると伝わらなければ誰も手に取らないということである。実際、ぼくはいままで参加したイベントでいろいろな同人誌を手に入れてきたが、当然ながらそれらは「そこにその同人誌が存在する」という情報があったからこそ、手に取ることが出来たし、その中でも読むことが出来たものは、やはりツイッターなどで情報を仕入れていたからだった。あと、いくつかふらっとおもむろにブースによって買ってしまうものもあるのだが、それらはたいてい、表紙などのビジュアル部分か、ブースや値札、ポップなどに書かれた付随情報によって買うかどうかを決めていた。値段を見たことは一度もなかった。まとめると、ぼくがその同人誌を手に取るまでには、「ツイッターで情報を仕入れる」「現地でふらっとそれらを見る」のどちらかの手順を踏んでいるということがわかった。また、ぼくもそうなのだが、ツイッターでひたすら自分の作品だけをツイートするようなアカウントは敬遠しているし、実際そうしているひとは多かった。そして、ぼくは極めて設営が苦手であるし、まして小説を書くだけでも面倒なのに、売るための努力をすることなどなおさら面倒なうえに、いくら頑張ったところでそういうのが好きだったり、そういうことを仕事にしてきているひとたちの前では埋もれてしまうという風に考えた。だから、現状でも最低限のブース設営しかしていないし、それを貫いてきた。しかし、前述したように、知らせることが出来なければ、ぼくの小説は誰にも読まれないまま、その役目を果たさずに小説として不完全なまま死んでしまうのである。復帰作で今書いていることであるが、ぼくにとって小説の定義とは「だれかに読まれることを前提として記述されたもので、何かを説明するわけでもなく、その全部もしくはほぼすべてを散文で構成し、詩でなく、また紙面に表現しうるもの」である。だから、誰にも読まれないものは小説として成立しないと考えている。

 そこで考えたのは、小説そのものではなく、書き手としてのひざのうらはやおを知ってもらうということだった。この男が書く小説とやらを読んでみたいと思わせるようなことをすれば、ぼくの小説は読まれるようになると考えた。しかし、ぼくには絵を描くことも、何かをしゃべることもできないし、歌うことはできなくはないがうまい人が多い世界だから目立たなかった。中学生からずっと小説やブログを書いてきたぼくは、やはり文章を書く以外のスキルというものをほとんど持ち合わせていなかった。それに、小説を読んでやろうという気概のある人だけ効率よく注目を集めたかった。注目を集めるのはろくなことがないから、最低限の注意だけ引ければそれでいいのである。

 タイムラインでは「漫画は読みましたと感想が来る、けれど小説はめったに来ない。来たと思ったらつまらない、とかそんな悪口ばっかり」という、おそらく小説をメインに活動している同人のツイートがあった。そういえば、過去にぼくは「同人誌を紹介するのがうまい」と言われたことがある。凄まじい小説を書く日本文学を専攻している女性だった。今から考えると嫌味だったのかもしれないが、それでぴん、ときた。

 ぼくはそこで床を見回した。文フリ東京で買ったものが並んでいたが、その中でどれだけのものを読めただろう、普段通りの生活をしていたら、多分半分も読めないのではないか、と考えた。そして、過去に同人誌を読んだ感想をブログに書いたら、作者からフォローが飛んできて、その人が文フリの時にブースに遊びに来てくれたことがあった。もし、この作品をすべて読んで、それらすべてについて真面目に感想を書いていったら、そのうちの何割かはぼくの小説が気になるのではないか。と考えた。これが「シーズンレース」のきっかけである。だから、シーズンレースの一番基本的な部分は、その即売会で、有償で手にしたものすべてについて読むというところなのである。

 もちろん、感想を書かれること、とくにネガティブなことを言われることが一切いやなひとが多い世界で、こんな試みをするのは非常にばかげていると思う。実際、思っていた以上に多くの人たちにぼくは拒絶されている。だからこそぼくは、読むことが出来たものについては、ぼくのすべての力を用いて、その作品のすごいところを語ることにしている。それがいかに自分の主義主張に反していようとも、いかにこちらの読解を拒んでいようとも。

 そして、ここが最も大事なところなのだが、ぼくが「春なのに工事中」を書ききれなかったのは、完全に小説を読むということを満足にできていなかったからであった。だから、様々なジャンルの、様々なスタイルの、商業にのることのないほど自由な文芸系同人誌をひたすら読んでいくという行為は、それ自体の分析・読解を深めていく行為と一体化することによって、膨大な創作としてのエネルギーを得る行為に他ならなかった。そしてぼくは、他の書き手たちがどのようにして小説に向き合っているのかということを知らなかった。シーズンレースを通して、それにも様々な、その人なりの想いがあるということに気づいた。

 シーズンレースのもうひとつの特徴、「上位3作品を記事化し特集する」には別の意味がある。これは、ぼくの人となりを示すものであり、かつ、どのような文章を好むかという意思表示でもあった。そして、良いと思ったものは良いといってより多くの、この記事を読んでいるひとたちのうちのひとりでも多くに届けることによって、ぼく自身がこの世界で過ごしやすくなるだろうと考えたことによる。だから、あえて、主観的ながらも、ぼくだけのルールで公正公平に順番をつけた。ここが相いれないひとは多かったのだろうと思うが、逆に言えばこれがなければぼくは前述のような頒布規模を持たないままひっそりと活動をやめていたのだろうと思う。

 イベントそれ自体への参加スタイルが変わってきたのは、そうしてシーズンレースを始めてから3イベント目で、テキレボ5のとき、隣に今田ずんばあらず氏がいたことによってだったと思う。

 

以下、現在執筆中の課題作「〇」の該当部分より引用する。

 

 彼はぼくと全く異なるバックボーンを持っていた。ぼくは音楽と純文学が大きなバックボーンになっている(ということに最近気が付いてきた)のだが、彼は少なくともどちらも持ち合わせているようには思えなかった。彼はぼくに興味があったようには思えなかったが、隣だったということもあったし、一見してぼくがかなり変わった頒布をしていたからだろう(実際、短編の量り売りをやっていた)、ちょくちょく話しかけてきていた。自転車で関東一周したことをエッセイにまとめたり、これまでもかなりの期間同人に参加していたのだが、テキレボに参加したのはぼくと同じく初めてらしい。そしてぼくに「イリエの情景」の1巻を勧めてきた。この時、ぼくは彼のトークにさして魅力を感じなかった。当時の彼は、震災に対する考え方も、自らの同人活動のスタイルも今ほど確立されておらず、ぼくはストレートに「なんて軽率で傲慢な男なんだろう」と思った。単なる興味本位でそれらしいものを書いて、それらしい本をつくることに躍起になっているように見えたのだ。実際はそんなことはなく、彼は彼なりの哲学があって、それを探究していただけだったのだが、価値観があまりにも異なっているように感じた。だからこそ、ぼくは「イリエ」を買った。それを読んで、彼が何を考えているのかを知りたかったし、大したことがなければそれで笑えばいいし、けれどぼくはどこか、彼が隠しているのが何なのかが気になったし、それが「イリエ」に秘められているような気がしてならなかったし、なにより「かれ」が「こいつ、多分すごい有名になると思う」と言ったのが気になった。

 

(引用終わり) 

 

 「かれ」とはもちろんいなくなってしまった「かれ」である。実際「かれ」の助言は当たり、ぼくは「イリエ」を読みながら、今田ずんばあらずが徐々に「完成」されていく様子を目の当たりにした。ぼくの前に最初に現れていた、無邪気でどこか学生のような若さと無鉄砲さを持っていた、ぼくがあまり好きではない人たちと何ら変わらない特徴を持っていただけに見えた彼は、知らないうちに1年で500部もの同人誌を頒布し、それを2年つづけ、あっという間にすさまじい知名度を手にしていた。

 その彼を見続けていて気付いたのは、同人誌即売会というのは、文字通りの同人誌を頒布するためだけのイベントではないということであった。それは本を通したひととひとの対話であり、その対話を通して世界が、地域が、ムラが広がっていくことが美しいことなのであると気づいた。それは悪く言えば共犯関係であるともいえる。けれど、その世界でしか守ることが出来ないものがあって、それが、ぼくの思う美しいものなのだとしたら、それを見ない手はないではないだろうか。

  だからぼくは取りつかれたように全国を駆け回ったのだと思う。もちろん表面的な理由としては「地方にしかない出会いがある」からであり、その通りの行動をしてきたのではあるが、今考えればそれは、ぼく自身が気づいたその世界をもっとよくみたかったのだろうと思う。

 しかし、その過程でぼくはあらゆるものを失っていった。過密なスケジュールは容赦なく経済リソースを奪う。健康も奪う。ただ、最も大きなもの、それが「かれ」であり、次いでぼく自身のスタンスであった。

 前述したとおり、ぼくは自らの作品をより多くの知るべきひとに知ってもらうために、より多くの作品を頒布し、そのためにひざのうらはやおという存在をより多くのひとに認知してもらうための広報活動を行ってきた。それによって、ひざのうらはやおを認知するひとたちも、その小説を読んでくださるひとたちも大幅に増えた。それらを意識する前と比較して10倍以上になっているはずだ。

 しかし、いつのまにか、そのひざのうらはやおを維持するために、ひざのうらはやおらしい同人誌を発行するという逆転現象が発生していた。どのあたりかは思い出せない。少なくとも、「まんまるびより」と「おもちくんメソッド」は完全にそうであるといえるだろう。「まだ見ぬ読み手」を考えるあまり、「存在しない読み手」に囚われてしまっていた。頒布数を記録するようになってから、「存在しない読み手」は明確にぼく、あるいはぼくらを蝕んだ。

 それでもぼくらは止まるわけにはいかなかった。そう、気づかなかったのである。

 「読まれた人の数でその小説の価値など決まらない」ということに。

 

 書き手のみなさんは、どうだろうか。ぼくと同じように「存在しない読み手」に追われてはいないだろうか。「存在しない読み手」は実体として存在しないが、確実に書き手の中に居座る幻影である。それらは頒布数や原稿の字数、印刷費など様々な数字に影を落とす、同人界に潜む魔物であるとぼくは考える。ぼくらが不特定の人間に自らの著作物を頒布すると決めた瞬間から、この「存在しない読み手」は明確にぼくら自身、それぞれのこころの中に発生し、無視できるひともいれば、完全に一体化することによって、むしろ創作エネルギーを増幅させるというひともいるだろう。つまり完全な悪者ではないのである。しかし、ひざのうらはやおという書き手は、この「存在しない読み手」と非常に相性が悪い書き手であることをぼく自身忘れていた。学生時代からずっと「読み手を意識しすぎている」と指摘され続けていた。それは、「いま目の前にいる本当の読み手」ではなく、この「存在しない読み手」のことであったのだろうと思う。

 「存在しない読み手」は、わかりやすさを餌としている。理由は簡単だ、わかりやすくすればより多くのひとたちがその作品に手を伸ばすから。「存在しない読み手」は数となった多くの本当の読み手たちの中に紛れ込みたいのだ。

 「存在しない読み手」はそれでいて何も言わない。ことばを持っていないからだ。けれど、確実にぼくらに手を伸ばす。数字として、ぼくら自身の自意識として。

 これはとても難しい問題だ。「存在しない読み手」に目を背けることが出来るのは、強靭な精神力を持った人間だけである。だからぼくは、ほとんどのひとたちが、この「存在しない読み手」に多かれ少なかれ悩まされているのではないかと推察する。

 そして、「存在しない読み手」に囚われ続けてしまう人が多くなっていくとどうなるかを考えた。

 即売会の認知度が広まり、より多くの人たちが一般参加および出展参加するようになった。即売会それ自体がにぎわい、界隈が広がりをみせ、自らの創作意欲は高まる。おそらくそれが理想で、むしろそれを理想としない即売会の主催などいないのではなかろうか。主軸は違うにせよ、ぼくらのいるこのムラが、界隈が、そとの人々、もしくは他のムラの人々と交流し、より深く文化を醸成していくことが究極的な目標のひとつであることは言うまでもないことであるとぼくは思っているが、あえてここで述べておきたいと思う。ぼくもそんなイベントに出たいし、もしリソースが許せばそんなイベントを作ってみたいとすら思う。

 しかし、もちろん現実はそう甘くはない。なぜなら、即売会に限らずすべてのイベントや界隈の人間がそうであるように、門戸が広がり、より多くの人間が流入するということは、当然にエントロピーが増大するということでもある。あまり使いたくない表現であるが、俗にいうところの「民度が下がる」という現象が起こる。これはエントロピーが増大した結果、その集団の閾値は集団の中の最大公約数的なものに収まってしまい、結果倫理的に問題のある行動を行うための閾値が加速度的に落ちていく現象によるものと推察できる。巨大な大学生のサークルは、それがテニサーだろうが、オタサーだろうが、合唱団だろうが総じてあまりいいマナーではないのと同じことである。つまり、現状より大きな規模になろうと思うのであれば、現状以上に高い秩序を形成しなければ、最終的に「場」そのものの倫理的側面が問われ、瓦解してしまう。規模を大きくするのであれば、それに細心の注意を払って行動せざるを得ないし、だからこそ簡単に会場を大きくしたりすればいいというものでもないのだろうとぼくは思った。

 とはいえ、正直それは最低限の倫理的な問題であって、その程度であれば個々人の努力と主催の辣腕次第でどうとでもなるのではないかと思う。ぼくがここ最近即売会イベントでときたま危惧するのは、「存在しない読み手」たちに囚われてしまった挙句、「わかりやすさの磁力」を濫用させ、そこに大きな流れが生まれてしまっているというところである。これは、とかく即売会という「アマチュア表現者が自主制作したものを表現として展示し交換する場」としてはかなり危惧すべき現象であるようにぼくは思っている。

 みなさんは選挙に行くだろうか。選挙なんてくだらないと思うだろうか。いずれにしても、選挙に行って投票をするとして、どのように政治家を選ぶだろうか。おそらく、「選挙公報を見てからウェブサイトを確認し、現職の議員であればその人がどういう質問や答弁を行ったかどうかを分析したり、そこからどの団体が応援しているのかを見たりして、最終的に自分が票を入れることで最も得をするであろう政治家の名前を書いて入れる」という人間は全国でも1000人いるかいないかではないかと思う。ぼくでもやらない。やりたいけれど時間がない。そうするとどこかを省略することになる。たいていの人間は調べることを省略する。だからサブリミナル効果で、選挙カーが候補者名を連呼していれば自然と票は増えるし、むしろやらなければどんどん票を奪われるのである。令和の時代になってもなお、選挙カーがおそらく滅びることがないと確信できるのはそういった理由によるのだろう。これがなくなるときは、おそらく国民全員に同じウェアラブルバイスか何かがくっついてしまっているようなそんな遠い未来の話だ。

 で、何が言いたいかというと、「わかりやすさの磁力」が生み出すものの行き着く先は選挙運動になってしまうということである。中身が見られることなく、鑑みられることなく、きらびやかな表紙や耳通りのいいキャッチフレーズ、空虚な「新奇性」、などといった、耳目をそちらに向けるためだけの努力「だけ」にすべてのリソースを割り振ってしまったものだけが売れ、それを許さなかった実直なコンテンツが見向きもされないということになってしまうかもしれないのではないだろうか。ぼくはそれを非常に危惧している。

 先ほども述べたように、「存在しない読み手」にとって「わかりやすさの磁力」は非常に強い嗜好品のようなものだ。わかりやすさそれ自体は、その質をともかくとして、多くの読み手を生み出すことは間違いない。しかし、多くの読み手を生み出すことは、同時に「存在しない読み手」の力も強くなっていくということである。

 もちろん、そういった努力を否定するつもりはない。かつてのぼくは全否定していたが、様々な出会いを経て、その重要性に気づかせられた。本当に必要としているひとのために届けるための努力はいくらでもすべきであるし、それは是非もない。しかし、肝心のコンテンツを、場合によっては作者自らが、その本来の価値を毀損してまで「広報活動」に勤しんだ作品は、はたして幸福といえるだろうか。読者に対して真摯といえるだろうか。少なくとも、ぼくは違うのではないかと思う。「存在しない読み手」に向けられた空虚な小説を、少なくともぼくはあんまり読みたくないし、そのためにこの世界に飛び込んでいると言っても過言ではない。

 ぼくがシーズンレースを経て、即売会を通じてかれらに求めるものが何かをずっと考え続けてきた。その答えのひとつが、この真摯さにあるのではないかと思う。それはつまり、いかに「存在しない読み手」に抗い、読み手を具現化させられるかというところではないだろうか。もちろんこれは主観的なものでしかないので、本当にその書き手が真摯かどうかはわからない。そんなの思い上がりだという意見もあるだろう。それは全くその通りではある。書き手の気持ちなど読み手がわかるはずもない。しかし、同様に、読み手の気持ちも書き手に伝わることはないのである。だからこそ「存在しない読み手」は簡単に発生する。そういった中での仮想的な、脆く儚い、けれども絶対に存在するはずであろう信頼からくる真摯さを、ぼくは信じたい。

 これらのイベントは大きくなればなるほど「お客様」と「店主」という関係にシフトせざるを得なくなる。心地の良い「内輪」を脱して、衆目に曝された市場へと姿を変えていく。それはまさしく商業コンテンツの世界へ吸収されることと同義である。それは同時に、商業コンテンツのコードにのらないような作品は淘汰され駆逐されていくことに他ならない。そういった土壌を生み出すことが、表現文化の発展につながるのだろうかとぼくは疑問を抱いている。もちろん疑問に過ぎない。事実ぼくはいま、まさに淘汰されようとしている側の人間だ。きっとたいていのひとたちは、そんなことなど考えること自体が無駄だと思っているだろう。だからこうしてぼくは書いている。

 少なくとも、ぼくの前に現れて、ぼくの作品を気に入ってくれた人たちは、おそらくぼくの小説に、商業の世界にはない何かを感じたのだとぼくは信じたいし、だからこそ再びこの地に戻ろうという決心は揺らがない。だから、そういった場がもしかしたらなくなってしまうのではないかと危惧していて、おそらく自分で小説を書くことが出来なくなること以上に畏れている。だって、それで困るのは少なくともぼくだけではないし、実際に存在する読み手にとっては確実に困ることになってしまうから。

 もっとも、ぼくひとりがそんなことを考えていても仕方がないのは事実だ。すべての出展者は、大なり小なり目の前の通りすがりのだれかと交流したいと思っているのはきっと間違いがないはずだし、それを否定するわけにはいかない。そしてぼくはそれを否定しているわけではない。だからこそ、「存在しない読み手」に囚われてしまい、最も重要なもののうちのひとつをなくしてしまったのだけれど。

 「存在しない読み手」に気を付けてほしい。これがぼくの遺言だ。

 

 

 ひとまず、文フリ東京のみならず、ここ最近のイベントで思っていたことを端的にまとめてみた。おそらく、ぼくしか書かなそうだと思ったから。

 今後の予定や委託などの発表については、近日中に発表します。

平成の夜に彼らを想うとき、令和の朝はまだ群青のままで

 どうも、ひざのうらはやおです。

 

 これも日記。タイトルはちょっとかっこつけてみた。こうして徐々にぼくはぼくを取り戻していこうとしている。

 

 ぼくは音楽の業界の現状をよく知らない。けれど、おもしろ同人誌バザールでテーマソングを歌っていたバンド「LUNCH-Ki-RATT」のインタビュー記事や、昨日参加した競争形式のバンドライブ「ROAD TO EX 2019」に行ってみて思ったのだが、ぼくがかつて抱えていた同人創作界隈とそう変わらない、特殊な苛烈さがあるのだと感じた。いや、おそらく文芸系より、より苛烈であると思った。ほんの一握りのプロの下に、とんでもない技量を持つセミプロやアマチュアが犇めいていて、かれらそれぞれが自らの音楽観それ自体、あるいはそれと、その哲学をいかに聴衆に届けるのかという手法、それ自体の葛藤、そしてそのすべてで業界から評価されてしまうという理不尽さと戦いながら、それでも自らの音楽をより多くの人に届けたいという確固たる信念をもって戦い続けている。おそらく現状としてはそういったところではないだろうかと思う。

 で、まあ前述した「ROAD TO EX 2019」の1次予選の第2ブロックを鑑賞してきたので、そのレポートを書こうと思う。

 まず最初におことわりを申し上げておくが、ぼくはこのライブに、参加バンドのひとつである「ノクターン」からお誘いを受けた。そのためかれらを圧倒的にひいきした書き方になっている。もし、いつものシーズンレースのような暴力的な公平性を求めるのであればそれは封印していただきたい。

 ちなみにこの企画のホームページはこちら

https://www.tv-asahi.co.jp/roadto_ex/#/First%20Stage?category=music-top

 ここで確認できるように、すでに2次予選進出者は決まっており、ぼくが応援していた「ノクターン」は惜敗してしまった。それも含めて、本当にこういう場に行ったのは初めての経験なので、備忘録も含めてレポートを書きたい。

 

 ぼくは「ノクターン」のじょぶず君とひょんなことから知り合った。ひょんなことすぎるのでそれについては割愛するが、彼らの研ぎ澄まされた音源と表現者としての姿勢にとても親近感を(勝手に)覚えていて、応援したいと純粋に思っていた。なのでそれ以外のバンドはもちろん初めてだったし、彼らの演奏を生で聞いたのも実は初めてである。バンド用のライブハウスで演奏を聴くのは初めてではないが、実に10年ぶりくらいだ。そういう人間の感想として以下、ご容赦いただきたい。

 

 で、「ROAD TO EX 2019」は、テレビ朝日が主導して企画しているようで、出演バンドの熱い演奏と激しい競争に焦点を当てているようだった。ぼくはここでなんとなく、夏の甲子園、つまり全国高校野球選手権大会を想った。かれらは高校球児と同様、プロまでの道のりをめぐってすさまじい競争にさらされる。1次予選の今回も例外でなく、上記のページを見ていただくとわかるのだが、まず「チケットを手売りした数」と「演奏終了後の聴衆の投票」によって予選通過者を決定する。ここでキーになってくるのは、「そのバンドの地盤」と「パフォーマンスで観客にどれだけアピールできるか」という部分である。おそらく、感覚や要素として一番近いのは「衆議院議員選挙」だと思う。この両方を十分に持っていないと、なかなか勝ち上がるのは難しい、極めてシビアな場所であると感じた。どれもみんないい演奏だっただけに。

 以下、各バンドに対して思ったことを演奏順に書いていく。

 

1 イロムク

 すごくスタンダードな構成のバンド。ややパンクよりのロックで、ぼくが高校時代バンドをやっていたころをすごく思い出した。このハコの中でぼくはおそらく中央くらいの年代で、一番多かったように思うのだが、だからこそ刺さる人は多いように思った。すごく、同年代の音楽という感じが強い。だからもっと応援したいなあと思った。個人的にMCがめちゃくちゃ好き。

 ギターが非常に色が濃いし目立つ。そしてそれを中心とした音作りになっているように思う。そういった部分が非常に聞きやすかった。

 

2 ノクターン

 予想通り、25分フルで全部演奏に費やしてきた。MCどころか曲間すら極限まで削った、潔い構成。実は公式ツイッターのフォロワー数を調べたのだが、ノクターンはこの4バンドの中で圧倒的に少ない(最大のバンドの10分の1、3位のバンドと比べても4分の1)。つまり動員力でどうしても他の3バンドに後れをとってしまうし、必然的にハコではアウェーになりがちである。けれど、ホームだろうがアウェーだろうが関係ない、かれらはかれらだけの世界を完全に表現した。事前に音源を聞いていたのだが、その音源の出来をすべて超越したうえに、かつ、ライブでしかできない表現を多用していて、ライブに来ることの意味をきちんと示してくれたという意味で、非常に完成度の高い演技だったと思う。ぼくの主観的な視点でいえばここにいる4バンドの中で最高の演技だった。しかも上記の悪条件の中で、このパフォーマンスを出すことが出来たというところは本当に特筆に値すべきではないだろうか。

 ここから先はかれらのコマーシャルなので適当に読み飛ばしてください。

 後半2バンドにとくに顕著にみられた傾向であり、おそらく業界のシーンとしてもそちら側にシフトしていくつもりなのだろうということが、商業音楽を聴いていても如実に感じることなのであるが、音楽業界はどんどんライブというイベントを消費させて、それをマネタイズしていく方向になっている。そういった中で、音源はもとより、それ以上にライブパフォーマンスをより重視していく傾向になっていくし、当然メジャーデビューを狙っているバンドはそちらを意識するのは間違いない。より聴衆を熱狂させ、エンターテインさせていくバンドが、よりメジャーデビューしやすくなる。その風潮の中で、彼らのような極めてストイックに舞台演出にこだわっていくスタイルというのはなかなか難しい。聴衆が求める「わかりやすさ」にそれらをもっていくことが難しいからである。その葛藤に、かれらが出した答えが、2ピースという特異なバンドスタイルだったのだろう。そして、上記のように一貫して自らの信じる音楽それ自体の完成度を深め、限界まで研ぎ澄まされた時間を提供することが、まさに「ポストロック」であり、「エモーショナル」であると感じた。このストイックな姿勢と自己完結性、そしてそれらを受け取るぼくらの多元性。この風景ってまさに文学なのではないかと思う。かれらのパフォーマンスを見て感動したのは、高い完成度はもちろんのこと、かれらが示す文学というものに非常に深い共鳴を得たからだろうと思う。だからこそ、ぼくはかれらを応援したいし、かれらの音楽にこたえられるのは、音楽をよく聞いているひとたちはもとより、むしろ文学を嗜む人間、つまりぼくのいるような界隈にこそ多いのではないかと思っている。これがぼくがこの記事を書こうと思った積極的な理由である。

 

 さて、つづき。以下2バンドが2次予選への進出を果たした。

 

3 CIVILIAN SKUNK 

 はっきり言う。めちゃくちゃ完成度が高い。バンドとして、凄まじく安定していたのが印象的だった。上記で少し書いたが、これからの音楽業界は間違いなくライブを重視する方向にシフトしていくと思う。で、そういった傾向にある中で、ライブパフォーマンスとしての完成度が完全に群を抜いていた。しかも、かれらはそれだけではない。「沖縄で同級生同士で組んだバンドが、東京武道館でライブをしたくて上京して、いまここにいる」という物語を背負っている。曲目やMCもすごくしっかり作り込まれていて、そこに並々ならぬ下積みの血と汗がにじんでいた。まさにエンタメを極限まで追求し、その中で自分たちの物語にぼくら聴衆を巻き込んでいくというスキルの強さが存分に発揮された25分だった。非常に堅牢で一縷の隙間すらなかった。ここまで徹底的にライブという場を聴衆と共有していく姿勢をとれるのは、まさにこのハコの規模ならではでもあるのだが、それを見据えてこの構成を考えているのであれば、非常に優秀だろうなと思うし、正直最終選考会場まで行けるのではないかと思った。

 

4 AliA 

 6人構成のバンド。そしてバンド名のTシャツを着ているひとたちがいっぱいいたところからかも、動員力はピカイチだったと推察できた。これは人数が多いバンドというところもあるのではないかなと思う。しかも、MCや終演後のトークを鑑みるに、それぞれが独特のキャラクターを持っていて、それぞれのファンも多いのだろうなと感じた。中でもすごいと感じたのはボーカルである。この声を聴いたときに、このバンドがなぜ6人もの大所帯で構成されているのかが分かった。凄まじいハイトーン、かつ圧倒的なパワー。これを下支えするにはかなりの音数が必要になる。このバンドは特に様々なフックを用意していて、多彩だと感じた。すでにそれなりに人気と実績があって、これからもまだまだシーン上で伸びていくのではないかと率直に思った。このバンド、だれかひとりが欠けても全然成立しないという部分でそれが強いところであるように思うのだが、中でもギターが軸になっているのではないかと感じた。このバンドのブレインはおそらく彼なのではないか。何も知らないけれどそう思った。ともすれば一気に崩壊しそうなバランスを極限で統制して、圧倒的なパワープレイと、非常に多彩な表現を支えている。これも2次予選どまりではないだろうなと思う。

 

 総じて、オープニングでMCの武井壮さんが語った通り、少なくとも素人目にはこれが1次予選だとは思えないくらいのハイレベルな戦いであり、そうであったからこそ、それぞれのバンドの動員力の差が如実に勝敗に影響されてしまったのではないかとぼくは分析する。また、ジャンルも絶妙に分かれていて、聞きごたえのあるライブだった。

 

 ただひとつ困ったのは、そういうライブに慣れていないせいか、非常に爆音の連続で疲れてしまったのと、ずっと耳鳴りが収まらなかった。次行くときはイヤープロテクターをしていこうと思った。

 

 どれもいい演奏だったし、特にノクターンの凄まじさを体感出来てとてもよかった。ぼくもまだまだ、書かなくてはいけないものがあると感じた。

 

 ちなみに、ぼくはこのゴールデンウィーク最後の日、令和最初の文学フリマで文芸同人生活をいったん休止する。東京流通センターで行われるそのイベント「文学フリマ東京」にて、新刊「平成バッドエンド」を発表する。文字通り、これは平成に捧げるレクイエムである。ぼくがかつて持っていた、小説を書くためのスキルをすべて結集させた作品であるので、もしこの記事を読んで気になった方で、5月6日に予定がない方がいたらぜひ来てほしい。こちらも、インディーズの様々な表現者が集うという意味では、昨日のライブと同じである。文学に偏ってはいるが、ライトノベルやキャラクター小説、漫画もある。気軽に立ち寄れると思うし、入退場自由で、入るだけなら無料なので、ぜひ立ち寄っていただければ幸いである。

 イベントのページはこちら

https://bunfree.net/event/tokyo28/

 そしてぼくのブースに置く予定のものがこのウェブカタログに登録されている

https://c.bunfree.net/c/tokyo28/!/%E3%82%B7/11

 ちなみに、「平成バッドエンド」のページはこちら

https://c.bunfree.net/p/tokyo28/13680

 

 まだまだ伝えたいことがあるので、いずれは復活したいと思いながら。

 その群青を暁に染めなくてはならないという使命があるような気がした。