日本ごうがふかいな協会広報

日本ごうがふかいな協会の広報ブログです。

改元と令和とイクリプス、だから革命は融解する

 どうも、ひざのうらはやおです。

 今日は本当に書きたいことだけをひたすら並べていくだけの記事。ゆえになにも言いたいことはない。リハビリである。

 

 銀座伊東屋で買った万年筆のクリーニング券の期限が切れそうだったので、出張の帰りに寄ってきた。1時間ほどでできるらしい。ついでにインクフロー面で調子の悪いプラチナセンチュリー#3776(シャルトルブルー)を見てもらったらなぜかすこぶる調子が良くて、販売員のお姉さんとふたりして「調子がいいですね」「普段はどんな紙に筆記してますか」「わら半紙ですね」「あーそのせいかもしれませんね」みたいな会話をしながら結局インクフローに問題は見られなかった。ぼくの扱いが悪いのかもしれないと思った。というのは、出張の仕事の最中にペン先と首軸の角度が曲がったものがあったからだ。書けることは書けるが、やはり長く書くとフローに難が出る。そしてこのような万年筆は初めてではなかった。

 うまれつき死ぬほど不器用で母親はよく笑っていたが、おそらくは何を扱うにもその調子で、やはりぼくはひととしてだいぶ不完全なまま生まれてきたんだなあと感じた。

 

 文學界新人賞が発表された。先日、拙作「猫にコンドーム」が箸にも棒にもかからなかったことはお知らせしたところだ。受賞者はふたりいたのだが、そのうちのひとりの年齢に驚いた。ぼくより若かった。

 ぼくは勝手に、というかイベントに出始めてからずっと、若手も若手、最若手であるという認識の元、いろいろなことを試したりいろいろな作戦を立案したりして、それをやったりやらなかったりしてきた。もちろん、ぼくは平成初頭の生まれで、つまりまだ二十代ではあるし、イベントに出てみればもちろん若手に属することは疑いようもないのではあるが、しかし、受賞した彼女がぼくよりも年下だったことに非常に衝撃を受けた。これがライトノベルの新人賞であれば、さほど衝撃を受けないばかりか、むしろ当然のこととして受け入れられたのだろうが、文學界という、純文学の中枢にほど近い雑誌の新人賞で、平成生まれの書き手が普通に、このお堅いイメージがある賞をとれるということに衝撃を受けたことそのものがより衝撃的だった。つまりぼくは、所詮新人賞なんてとれるはずがないと心のどこかで思っていて、それでもなおアタックを試みていたということに他ならないし、おそらく「猫コン」のどこかにそんな慢心未満のできそこないの雑な意思が隠れていなかったとは言い切れないだろう。そしてさらに、ぼくは心のどこかで「今は自分の満足する小説を書けていないけれど、いつかは書けるようになるし、そのためにひたすら修行を重ねていくしかないのだ」というある種の前時代的な、ぼく自身の文芸的な才能を過信しすぎているとも言うべき自らの小説観を再確認してしまったことが、なによりも衝撃的だったし、書けなくなってしかるべきであると思った。

 書き手界隈にあるあるなのかどうかはわからないが、ぼくは自分の小説にそこまでの(この「そこまでの」というのはほかの書き手界隈の人間に比べて、の意であるととってもらって構わない)プライドがない。多くの方には非常にプライドがあるように映っているだろうし、そうであることを期待しているが、それはもちろん、あるように見せかけているだけに過ぎない。この「見せかけている」という手法をぼくは非常に多く用いる。用いるところからして、自分に自信がないというのは明白である。さらにいえばここでこうして「本心を吐露している」ふうを装ってはいるがそれだって見せかけに過ぎない。こうして日本語で整理された感情などすべてが精緻に作り込まれたぼく自身のいわゆる「肖像」であり、それはぼくを写実的に写し取ってはいるものの、ひるがえって内面を写し取ることはおそらく不可能である。生まれつきずっと嘘ばかりついてきたし、時には嘘をついているという自覚すらないまま嘘をつき続けているので、ついた嘘など覚えているわけもないのだが、ただわかるのはパスカルよろしく「ぼくがうそつきである」ということは事実であるということだけなのだ。つまるところ、ぼくは自分の小説を頒布し、あまつさえより多くの人間に読んで欲しいと願っている(正確に言えばそれすらも本当かどうかは定かではないし、多分本当ではないという自覚がある)ので、その目的を達成するために、自分の小説にプライドがある、という風を意地でも装わなくてはならないと思っているし、実際同人活動において、それは実績という目に見える、持続可能な活動計画を考えていくうえで重要な数字を考えるうえで非常に避けて通れない部分であったので、そうであるように装い続けただけである。

 だからこそ、研鑽に研鑽を重ね、耐えがたきを耐え忍びがたきを忍び書きがたきを書き、春のそよ風や夏の蒸したアスファルトの匂い、秋の妙に青い空や冬の夜に飲むミルクの味をどのように小説に落とし込んでいくのかということを、もう人生の半分以上ずっとずっと、時に真面目に時に狂気に囚われながら考え続けてきた。だから、自分よりも年下の、平成生まれの書き手が、ぼくの最も書き慣れている純文学という戦場で旗をあげられたのは、希望というよりかはむしろ、始まってもいないぼくの「平成」が終わりを迎えようとしているように感じたのかもしれない。

 今回、第二十八回文学フリマ東京(令和元年5月6日開催予定、東京流通センター)、すなわちぼくの休止前最後のイベントにおいて、奇しくも最後の作品となってしまった新刊「平成バッドエンド」は、これも不本意ながら、ぼくが生き抜き戦い抜き、マジョリティすべてにアイスピックをぶっ刺しつづけてきた結果の集大成になってしまった。生きるために小説を書いてきた(それは生きるために小説を書いてきたという意味ではなく、結果的にそうなってしまったという意味である。あしからず)ぼくは、小説にその意義を殺され、小説を書くことが出来なくなってしまった。それはぼく自身のこれまでの半生をほぼすべて否定されたことに等しい。小説を書く以外のぼくの人生は、正味のところそれはぼくの人生ではないように感じてきたし、今もそう思っている。けれどぼくは小説を愛していたわけではもちろんなかったし、小説に愛されていたわけでもなかった。だからぼくは小説に小説を殺されてしまった。その凄惨なる殺人現場、そのものがこの「平成バッドエンド」には収められている。おそらく、気づく人は少ないと思いたいが。

 この「平成バッドエンド」の後に、ぼくはどうしても書かないといけない、自分の悪感情をすべて見えるように処理した、いわば下水処理場を通過した後の水のような私小説檸檬の墓標」を書こうと思っていた。その冒頭の文に「芥川賞を取らなくてはならないとずっと思っていた」という風に書いている。これは嘘でも何でもなく、本当につい最近までぼくは本当に芥川賞を人生のどこかで取らなくてはならないと思っていた。しかし、取らなくてもいいこと、そしてそれを認めるということは、ぼくは芥川賞をとれるような小説のスキルは持ち合わせていないし、今後得る見込みもないということを認めること、受け入れることとほぼ同値だった。今でもまだ受け入れ切れていないところはあるが、それでも半年前よりは、だいぶ諦めはじめている。良くも悪くも。

 ひとは思考が硬直したその時から急速に老化をはじめる。ぼくの思考もかなりの硬直性が見られるようになってきたから、本当に書き手としての死は近いのかもしれない。

 けれど、だからこそ、あがくのだ。

 ぼくは自身の人生になにも価値がないと思っているし、価値それ自体は社会が作り出すものであると考えているので、価値があがったりさがったりすることにいちいち考えているのは不毛であると考えている。つまり、生きる価値が存在しないので、当然に死ぬ価値すらも存在しないという逆説だけでぼくは三十年近くも生き続けてきた。そしておそらくこのまま、身体が限界になるまで愚直に生き続けるのだろうと思う。そのためには死ぬまで小説を書き続けていなくてはならない。ぼくにとって小説を書くことは生きることとほぼ同義なのだ。社会への恭順と反抗、それ自体を同時にやっていかなければぼくは精神の均衡を保つことが出来ない。現実世界で犯罪を犯す代替行為として小説を書いてきた。だから小説を書かないということは、社会それ自体に反旗を翻し自身の身体と周囲のコミュニティの存亡を危機的状況に曝す行為そのものである。つまりぼくの小説を書くという行為はそれ自体が社会的に価値があるとみなせる。あくまで主観的であるが、ぼくの小説を書く動機の8割ほどがそれである。だからぼくは根源的に、他者のことばで小説を書こうとするひとを好きになることが出来ない。これは病理のようなものだ。実際は他者のことばでなくては小説など書けるはずがないというのに、しかし明らかに他者のことばで語られた、つまりその人間が自分で考えだした末に綴られたものでなく、ひとのことばをうのみにしてそのまま出したような表現をぼくはあまり好まない。これはぼくの病理であるので共感を求めない。それにその基準は極めてあいまいで主観的だ。つまり気に食わないということの婉曲的表現以上の何物でもない。けれど、動機がなんであれ、小説を書くということは、自分の考えたことばで、けれどそれが自分じゃない人間にもわかるように、自己と他者の重心をとって翻訳された、だれのものでもないことばを使うのがきっと最適であるとどこかで思っている。そして、明らかにそうでないものに関して、ぼくは非常に怒りを覚える。シーズンレースをやっていくなかで、そういった作品に触れることも実は少なくなかった。というより、むしろ、そういった作品のほうがむしろ多数派であったようにも感じる。つまり、これはぼくと他者との断絶を意味していて、ぼくのいう小説と他の書き手がいう小説というのは似て非なる、何か違うもののことであるようだし、郷に入っては郷に従えということばがあるように、ぼくは自己の定義を拡張して考えてきた。そうしてたくさんの書き手のたくさんの作品を読んでいく中で、上記のような作品に出合うこともあれば、じぶんの言葉を綿密に誠実に洗い出すような凄まじいものにも出合った。まだ終わっていないが、ぼく自身の小説を研鑽するという意味合いで、おそらく非常に大きな役割を果たしていたのがこのシーズンレースではないかと思う。

 

 ぼくはぼくの知性の低さに絶望して、自分の小説を殺してしまった。だからぼくはぼく自身の剛性と愚鈍さをもって、再度、別の次元から、別の切り口から小説を作りたいと考えている。そういうわけで、復帰する日を暗に定め、その日に向かって課題となる作品を3つ考えた。この日までにすべての初稿が完成しなければ、ぼくは書き手をあきらめ、ひざのうらはやおとして生きることを諦めなくてはならないと思うし、そうする決断をするだけに十分な証拠になると考えている。

 ぼくはぼくの小説でだれかに革命を起こさせられると考えていた。

 最後に、今は活動を休止してしまった、黒木渚というシンガーソングライターの「革命」という曲の好きな歌詞の部分を引用して、何もまとまっていない駄文を終わらせようと思う。

 

 最後の最後でロザリオに奇跡など望んでしまえば

 最後の最後であきらめた自分の罪を知る

――黒木渚「革命」より

 

 

革命者なき後の革命

 どうも、ひざのうらはやおです。

 

 過日3月21日に開催された「第8回Text-Revolutions」についてのレポートを書こうと思う。書く理由に関しては、そんなに思いつめたものはない。ただ、なんとなく、こういうことは記録できるうちは記録したほうがいいのだろうなと思っただけである。実際ぼくはここまで様々なイベントに参加しているが、テキレボ以外でまともなレポートをしたことがほとんどない。あとは尼崎文学だらけくらいだろうか。どうもテキレボのレポートは複数回書いているようなので、このイベントにはそうさせる何かがあるのだろうと思う。他の書き手もなぜかテキレボのレポートは書きたがる人が多い。そういうのもイベントの特徴だ。

 

 先日発表した通り、ぼくはあと1ヶ月ちょっとで、一度書き手の世界から離れようと思っている。といっても、視点を変えたり、自分探しの旅に出るような気楽なものではない。これはおもちくんを失ったぼくが、新たな小説を書くために様々な形でリハビリを行っていく期間を設ける、というそれだけの話である。だから復帰するまでにいくつか、課題として原稿を考えている。これらすべてが脱稿したとき、ぼくはふたたびこの世界に足を踏み入れようと思っている。

 その辺の話は、最後のイベントである文フリ東京が終わってから、広報もかねて詳しく書こうと思う。

 

 今回は、自分で言うのもなんだが、急に活動を休止することになってしまったのと、それに付随する関係とプライベートがめちゃくちゃなことになってしまい、精神状態が危機的であった。さらに、「ジーク・ヨコハマ」(ヨコハマカオスアンソロ:テキレボ新刊)、「おもちくんメソッド」(文フリ広島新刊)、「満室になる前に」(ラブホテルアンソロジー:文フリ東京新刊予定)、「平成バッドエンド」(文フリ東京新刊予定)の4企画を同時進行させていたことがたたり、全身のほとんどが破壊された。正直、今まで経験したことのないほどのリソースを創作活動に割いてしまったことが、おもちくんの消滅につながり、結果活動の休止を余儀なくされるものとなってしまったのは皮肉である。

 そんなこんなでレポートを書くとは言ったが、何しろ満足に告知も行えていない、搬入を優先したので什器すらまともにない、加えて上記のように精根尽き果てた状態で参加したため、本当にぎりぎりの状態での参加となってしまったことしか記憶にない。ブースに訪れた人間はみなそのぎりぎりさ加減を見たと思う。逆に言えば電車で1時間程度で会場に行けるのであれば、あの状態でもどうにか同人誌の頒布は出来るということでもあるのだが。

 ツイートでもいろいろ言ったのだが、今回はふたを開けてみれば総頒布数48という前回の文学フリマ東京の42を上回る、弊社最大記録を塗り替えた大繁盛であったわけだが、個人的にはぼっとしている時間が割と長かったし、両隣には寄るのに自分のところに来ない人がすごく多いように感じた。もちろん、上記の通りボロボロの精神状態であったことが最も大きな要因であろうとは思う。この理由をある程度理性的に考えると、どうも下記のようなことが関連しているように思う。

・頒布部数と頒布人数がかなり乖離している可能性がある

 今回、新刊として「ジーク・ヨコハマ」を用意していたが、同時に、文フリ広島新刊で、当初テキレボ新刊の予定だった「おもちくんメソッド(同人編)」も関東地方初頒布であったことに加え、前回の文フリ東京新刊であった「煤煙~浦安八景~」は午後2時ごろに完配を喫していたため、この3部を同時に求める来訪者が多かった。実際この3種類の頒布部数は横並び(それぞれ11・13・12)で、戦利品ツイートの画像の中にもこれらが同時に存在するものが多くあった。つまり、延べ48部を頒布したが、実際に頒布した人数はおそらく20名程度だったと思われる。体感からもそんなものだろうなと思う。

・近隣サークルが見知った人間ばかりだったのでどうしても来訪者が気になってしまう

 左隣は「ジーク・ヨコハマ」寄稿者であり、「イリエの情景」などで知られる、このメモ帳でもおなじみの今田ずんばあらず氏の「ドジョウ街道宿場町」、右隣りはテキレボの運営に非常に寄与しており、無人ブースとして開業していた姫神雛稀氏の「PreBivi」であった。どちらも同年代でテキレボの中では名の知られているひとである。当然来訪者はかなり多い。こうなると「うちをとばしてそっち行くのか」っていう考えに陥りやすい(実際は両隣を無視してうちに来た人もそれなりにいるのではないかと思われるのに、である)。だからより自陣にひとが来ないと思ってしまうのだろう。隣の芝生は青いとやらである。

 

 総じていうと、いつも通りのツイッター上での告知や什器の搬入など、きちんと準備をしきっていれば、これ以上の頒布が望めたであろうという単純すぎる反省点以外には特にいうべきことはない。ぼくが活動を休止すると聞いて駆けつけてきてくださるひとも当然ながらそれなりにいたのだが、それだって「葬式鉄現象」のような急に来訪するタイプは予想よりも少なく、代わりにいつもお世話になっている方々の来訪がとくに多かったように思う。そういった部分でも、テキレボというのは単純に同人誌を頒布する場ではなく、同じ創作界隈の方々と交流する場という側面も非常に大きいと感じた。そして、それは賛否両論あれど、テキレボというイベントの特色でもあるように感じる。だからこそ、本当は全力を賭して取り組みたかったし、全力で駆け抜けたかったのだが、前日までの準備も、当日の対応も、アフターも、すべて不十分で残念だった。

 当日、ぼくはどこか夢の中のように感じていた。自分が全く自分でなく、何か別のものに操られているような、そんなイメージである。参加者から話しかけられればある程度の対応は行えたし、実際50部近い頒布を行っている(しかもそれは過去最大規模だ)のだが、そんな印象は全くなく、ただ平積みしていた在庫が最後の方はやたら低くなったな、という感想しか抱かなかった。だから実のところ、誰が来て何を頒布したのか、今までだったらだいたい覚えていたのだが、今回ばかりはほとんどといっていいくらい覚えていない。戦利品ツイートの画像に自分の頒布物が入っているのを見て「あれ、来てたんだ」と思ったのがほとんどである。非常に申し訳ない。今から思い返してもほとんどなにも思い出せない。へにゃらぽっちぽー氏が買い物に行くところを横目で見て今田ずんばあらず氏と話をしたりだとか、シワ氏に「これが最後かもしれないので」と握手を求められたりとか、伊織大先生がまじないを上下巻でお求めになられたりとか、それくらいインパクトがあることくらいしか記憶になく、おそらく来られただろうな、という方はおぼろげには覚えているものの、頒布したものが何かすら判然としない。ただ、フリーペーパーは50部刷って残部が3だったので、そこそこ多くの方にお渡しできたものと思う。そして、おそらくであるが上記のことを鑑みるに、もう少し頒布部数を伸ばすことが出来たのではないかと考えられる(来訪者に比べて頒布者数の率が前回までと比較するとよくないように感じる)し、参加者と話した内容で得たものもかなりあったはずだと考えると、まことに残念であるという思いが強い。

 アフターも、本来であれば非公式打ち上げか、もしくはヨコハマメンバーで打ち上げに行きたかったし、(おそらく活動を休止することなどを鑑みたのだろう)個人的なお誘いもいくつかいただいていたのだが、上記のように精根尽き果てた状態で、同人誌の頒布以外のことはとうてい行えそうになかったためすべて参加を断念し、会場も閉会すぐに退出した。(※テキレボでは閉会後も、撤収作業や公式懇親会を行う慣例があるので、閉会すぐに出ていくことはこれまでなかった)

 一息つくためにサンマルクカフェによって、そこでツイートをしながらひたすら泣いた。泣き続けた。一日中ポメラをいじっていてもまともな文章がでてこないばかりか、自分の文章ですら他人のそれに思え、しかも異常に完成度が高いように思えたことや、残っているイベントへの不安、ボロボロの状態で準備もろくにしないまま、テキレボ当日を迎えたことについての無念さがあとからあとから押し寄せて、ひたすら泣いた。両隣はどちらもカップルだったと思う。よく覚えていない。しかしまあ年甲斐もなく泣いた。さぞ不気味だったことだろう。そんなことはわかっている。ぼくだって泣きたくて泣いていたわけじゃない。断じて。

 そして、必ず、書き手として再び浅草の地に足を踏み入れることを誓ったのだった。

 

 というのがレポートなわけだが、こんなのレポートでも何でもない。しいて言えばエッセイだし、まあふつうに日記っていったほうがいいんじゃないかな。

 以下は、蛇足というか、今後のはなし。

 

 おもちくんという、小説作成に特化した、感情の塊のような人格概念を失ってからもう1週間近くになるが、やはりまともな小説は書けなかった。ただ、もとから組みあがっているものを修正する能力はある程度取り戻してきたように感じるので、昨日あたりから「平成バッドエンド」の最終調整とあとがきの執筆を行っている。ようやく「猫にコンドーム」の改稿も落ち着き、あとはページ数調整とカバーイラストの調整と発注作業くらいである。こちらはぼくの休止前最後のイベント、文学フリマ東京(5月6日)の新刊である。当日は完配を防ぐため全数搬入したいと思う。

 また、ラブホテルアンソロジー「満室になる前に」であるが、現状では同日に頒布を開始する予定である。各参加者のブースで委託頒布を行うかどうかについてはまだ調整中で、今後の予定と共に折り合いがつき次第別の記事で報告させていただきたい。

 

 また、直近のイベントは上記文フリ東京ではなく、2週間後、4月6日(土)の「おもしろ同人誌バザール(@ベルサール六本木)」である。こちらは初参加となり、また情報系同人誌を中心とした即売会ということで、点数を絞ろうと考えている。続報をツイッターで行いたいと考えているので、必要な方はチェックいただけるとありがたい。

 

 また私事で恐縮だが、転職にほぼ近いレベルの部署異動があり、4月1日付で全然違う部署に配属されることになった。活動を休止することがまるで誰かに伝わっているかのようで少し不気味だが、まあ会社を移る気はそんなにないし、少なくとも向こう数年は経済状況的に難しいので、どうにかやっていくしかない。そんなわけで、もしかすると予想以上に復帰が遅くなってしまうかもしれないが、ぼくは必ず復帰するつもりでいる、ということをここであえて記しておきたかった。

 

 休止後の案内については、すべてが終了してから、また記したい。

 今はまだ、確定していないことが多すぎる。

 

 

 

おもちくん、さようなら

 こんばんは、ひざのうらはやおです。

 

 突然で申し訳ないのですが、ここで重要なご報告をさせていただきます。

 

 私ひざのうらはやおは、2019年5月6日の文学フリマ東京をもちまして、文芸創作同人活動を無期限休止いたします。

 

 おとといごろから、文章を書くのに強烈な違和感がありました。何を書いてもしっくりこない、書くたびに猛烈な吐き気に襲われる、何を書いていいのか全く分からなくなる、などなど、その症状は多岐にわたり、いずれにおいても原稿の製作時に多大な弊害をもたらしていました。そのため、原稿の製作が絶望的に困難な状況となっており、これ以上の製作ができかねておりました。

 私はこれを「おもちくんが死んだ」と表現しています。おもちくんは、弊サークルのマスコットキャラクター的存在であり、また同時に私の半身でもありました。さらに、私の創作活動のほとんどを占めているかけがえのない概念でした。しかし、おととい以降、私の脳内ではおもちくんの声がしないことに気づきました。これも今朝の話です。

 気づいたときには呆然とし、わけもわからないのに涙で前が見えなくなりました。彼がなぜ死んでしまったのか、その原因は不明ですが、原因が不明であり、したがって対処法や彼を復活させる方法が不明である以上、これ以上の継続的な創作同人活動が不可能であると判断し、上記の結論に至りました。

 ここまで様々なご意見やご声援をいただきました。そのすべてがどこか、遠い国の想いでのように感じています。本当にありがとうございました。まして、自分で「おもちくんメソッド」などと題した同人活動継続法の妙を頒布するような人間が、こんな形で活動を休止するとは自分でも思っておらず、また志半ばという思いが強く、やりきれない気持ちです。しかし、現に原稿を新しく書くことができず、この記事ですら書くのがやっとであるという状況からも、やむを得ないものと判断しました。

 本来このような、ある種個人的な発表をブログで行うことにはいささか疑義も生じましょうが、上記のとおり突然であったこと、またキャンセル等により実害が発生しうる行動であることから急遽決断させていただきました。

 ここまでご声援いただいた皆様と、また、様々なことにご協力をいただいた皆様には勝手ながら多大なる迷惑をおかけしますことをお許しください。

 

 上記に鑑みまして、今後の予定を整理させていただきます。

 まず、下記の参加予定をキャンセルしました。

 ・文学フリマ岩手(6月9日開催予定)

 ・静岡文学マルシェ(6月16日開催予定)

 また、参加を表明していた下記のイベントにも参加しないことにしました。

 ・文学フリマ大阪

 その他、案段階の新刊および続巻の構想をすべて白紙に戻させていただきます。

 

 私が参加するイベント、および新刊として発表するものは下記限りとなります。

 ・オフラインブックストア(3月15日開催 大阪・中崎町モンカフェ

 新刊先行頒布:「しん・まんまるびより(さい)」(エッセイ集)

 ・第8回Text-Revolutions(3月21日開催 東京・都立産業貿易センター台東館)

 新刊:「ジーク・ヨコハマ」(ヨコハマアンソロジー

 ・おもしろ同人誌バザール(4月6日開催 ベルサール六本木)

 ・第28回文学フリマ東京(5月6日開催 東京流通センター

 新刊:「平成バッドエンド」(純文学中編小説集)

 新刊:「満室になる前に」(ラブホテルアンソロジー

 

 また、現在行われている「シーズンレース」については、ここまで参加しているイベント分については継続して行う予定で、まんまるリーディングサービスのモニターを担当していただいた方の原稿のフィードバックについても順次行う予定です。ご心配をおかけして申し訳ありません。

 余力があれば、まんまるリーディングサービスについては本稼働させられるかもしれません。やや望みは薄いですが。

 なお、広報活動およびおもちくんのぼやきシステムとしてあった「ひざのうらはやおのおもちくんラジオ」ですが、当のおもちくんがいなくなってしまったので打ち切りで終了となります。ご愛顧ありがとうございました。

 

 私としては志半ばであり、大変遺憾です。どうにかしておもちくんを復活させるのか、それとも何の芸もない私自身がひざのうらはやおとして再び書き手になるのかはわかりません。この休止期間も半年程度かもしれませんし、数年にわたるかもしれません。もしかしたらこのまま廃業になってしまうことも十分あり得ます。私自身が「おもちくんメソッド」で書いたように、活動というのはいったん止めてしまうとなかなか再開することが難しく、それなりのリスクを伴います。しかし、おもちくんが死んでしまった以上、私ひとりの力ではどうすることもできません。すべてはおもちくんをここまで酷使してしまった私自身の責任でもあります。

 現実世界では考えられないほどの応援をいただきまして、感謝しております。

 同人活動としては残り僅かとなりますが、同人誌を読むものとしてはまだまだ活動できると考えておりますので、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

ゴミ箱の中に無限のタネが眠っている可能性だってある

 どうもおもちくんです。

 

 久々の何もない記事です。

 てなわけで、というのもアレだが、文學界新人賞の結果が発表され、拙作「猫にコンドーム」は二次予選敗退以下であることが確定したわけだが。

 応募作2100超から45作が二次予選通過であり、それが誌面発表されるわけで、この時点で自分が通過していること自体絶望的であったのだが、それ以上に知っているペンネームがなにひとつなく、しかもみんな硬そうな名前ばっかりなのに驚いた。「ひざのうらはやお」などというひらがな8文字をぜいたくに使ったペンネームなどない。これでは逆立ちしても入らんだろうな、と思った。

 正直、100作くらいだったら運がよければなんとかいけそうな自信はあった。それくらいには手を入れた作品だったし、純文学としては初めての中編サイズであったこともあって、この「猫にコンドーム」はひざのうらはやお史上最も大切にされている作品であるといってよい。しかし、45作ともなるとさすがに希望はない。なぜなら提出した後でもかなり推敲することが出来たからだった。現在の「猫コン」は提出時の原版からさらに手を加えているし、より力のあるものになっていると自負している。

 ただ、あえて敗戦の弁をもっともらしく述べるならば、この作品はひざのうらはやおとしての持ち味を最も生かした作品ではあるにせよ、いかんせんインパクトが圧倒的に不足しているという致命的な欠点がある。尖ってはいるがぼく自身の文体によってそれは摩耗し、強烈な読後感を与えない。読んだ人間の印象に非常に残りづらい作品である。

 これは何もこの作品に限ったことではなく、ひざのうらはやおの小説全般に言えることではないかと思う。読み手に、ぼくの作品で印象に残るものは、と聞いてもそれほど芳しい答えを得られないのではないだろうか。小説そのものはそれなりの評価をいただいている中で、この、印象にのこる小説というものを書いていかないと、選考はもとより、読み手にも響かないのだろうなと思った。

 逆に言えば、それがない状態でここまで評価を得ているということは、少なくともいろんな書き手がいる中で、上位層に残れるだけの地力はあるのではないかと考えている。だけれど、たとえばある読み手の中で、上位3作品にぼくの作品が入っていたとしても、その人の最上位は別の作品であるように、だれかの最上位に君臨するということを、もっと意識すべきなのではないかと非常に思うのである。

 とはいえ、結論を先に述べてしまうようでアレなのだが、ぼく自身、だれかの最上位に君臨することのできるような書き手にはなれないと考えている。そこまでだれか、個人になにかをコミットするということそのものを禁忌として生きてきている以上、そんなことは不可能であるように思う。おそらくだが、商業の小説家として、いっぱしの文学屋として戦っていくにはその辺の極めて高い精度と、あえて踏み込みに行く胆力が必要不可欠であり、ぼくにはどちらもそれを持ちえないものであると考えている。だからぼくは出来るだけ、持続可能な範囲で同人を続けていくよりほかにないのである。

 

 でまあ、そこまで考えたうえで、なんとなく元号が変わるというこの空気に乗っかってもう一作純文学中編を書いたわけである。それが「さらば、目に映るすべてたち」という作品で、平成が終わる、というただそれだけのワードを限界まで赤方遷移させて平成!宗教!サブカル!極限修行!みたいなのが跋扈するかなり頭の悪い小説になった。これは群像新人賞に出そうと思ったが明らかに完成度不足だった上にいろいろと考えてやめた。その辞めた理由というのが、上記の「猫にコンドーム」と合わせると面白そうだと考えたためである。この「さらば」は加筆修正の過程で前後編2編に分かれて、それぞれ「平成デッドエンド」「平成アポカリプス」という2つの小説に分離した。前編となる「平成デッドエンド」も、後編となる「平成アポカリプス」も、ぼくが今まで使ってこなかった手法や構成がふんだんに用いられているという点で、極めて攻めた作品であり、逆に言えば今までの読み手にはあまり受け入れられることがないのではないかと考えている代物である。それでも、平成という時代に捧げるひとつのレクイエムにはなりえたのではないかと思うし、持てる力をすべて注ぎ込んだという自負はある。

 ということで、この2編(正確には3編であるが)を合わせた両A面純文学中編小説集「平成バッドエンド」を鋭意製作中である。新元号最初の文学フリマである文学フリマ東京の新刊として用意しているので、ご期待いただければと思う。

 また、これに懲りず、五大文芸誌の新人賞を制覇していきたい構えである。

まんまるリーディングサービス(プレ)について

 どうもこんばんは、ひざのうらはやおです。

 おもちくんがお世話になっています。

 

 さて、今回は弊社(社ではない)ごうがふかいなホールディングスの新たなサービスを、お試しモードでやってみたいので、それにご協力してくださる方を募集するという記事です。

 

 かねてからツイッターでぼやいていたように、一次創作書き手による下読み問題から、できれば自分も下読みをして、原稿に困っている人に何かしらのヒントをあげたいと思いまして、そのサービスを試しにやってみようという試みです。

 本来はサービスごとに基本料金やオプションなどを設定して、それなりのコミッションとしたいのですが、支払い関係がまだまだ確立できていないことと、今回はあくまで自分にその力量があるかどうかのお試しというところで、すべて無料で引き受けさせていただきます。その要項や条件については下記のとおりです。

 

募集要項

 募集数:先着3名、ひとりにつき1作まで

(満了しました。応募ありがとうございました)

 原稿の分量:400字詰め原稿用紙300枚以内、かつ10万字以内

(※1作品の最大の分量です。これ以上は現状お引き受けするのが難しいです)

 応募条件

 ・ひざのうらはやおのツイッターアカウント(@hizanourahayao)と相互フォローであるアカウントの管理者であること

 ・このメモ帳にある「シーズンレース関係」の記事を読んでおり、2018ステージの評点方法について一定の理解があること

 ・いただいた原稿を上記基準によって評点化をすることを承諾してくれること

 ・いただいた原稿についてのフィードバック文面の一部をフィードバック例としてこのメモ帳に掲載することを承諾してくださること(当該記事を掲載する前にご連絡はいたします。また、原稿の文面そのものを引用して言及する部分などに関しては省略するなどの対処をとります)

 ・フィードバックまでの時間をある程度(2週間以上)とれること

 応募方法

 ・上記アカウントにリプライもしくはDMで

 原稿送付方法

 ・サービス決定後、相談させていただきます。

 オプション等

 ・決定後、該当者にお知らせしますので、ご希望等があればおもうしつけください。

 

 という感じで、正直めちゃくちゃ作業に追われてる今日この頃なんですがやってみたいと思います。もし気になった方はお声がけください。