日本ごうがふかいな協会広報

日本ごうがふかいな協会の広報ブログです。

どこかがカットされれば、かならずしわ寄せを食らう人が出てくるということをもう少しちゃんと考えてもいいと思う

 どうもかーびぃです。寒いし乾燥しているので長いこと体調を崩しっぱなしだった。

 

 文フリ東京で手に入れた同人誌は全部で8冊であるが、ここまでで6冊を読み終わった。そこで、現時点で、今回惜しくも上位3冊に入らなかった3冊について、簡単に感想をまとめました。なお、評点については原則非公開といたしますが、リプライ等でご連絡いただければお返しします。役人試験方式ということで一つよろしくお願いいたします。

 

 「雨に曝されて」著:転枝from木の葉スケッチ(木の葉スケッチ)

 新書226pという少し変則的な装丁の単行本。木の葉スケッチに所属する転枝(ころえだ)さんの長編小説。木の葉スケッチの合同誌については、以前ご紹介させていただいた。また、その中に本作の前半部分である「雨に曝されて」という短編が掲載されている。

 最初に読んだときから感じていた、情景描写と心理描写、および全体の構成力がたった226ページの中にこれでもかというほど収められており、著者の力量を感じる一冊。その鮮やかな筆致は、モデルとなった場所の情景をすぐに頭の中に展開させ、その舞台で繰り広げられる登場人物たちの表情の機微がはっきりと脳内に浮かび上がる、非常に写実的な小説である。特に後半部分「晴に恵まれて」における文章の風光明媚さとストーリー展開の立体感の対比の完成度は非常に高い。

 ただ、個人的な嗜好としては、あまりに綺麗すぎるという部分と、引き込まれる文がいまひとつなかったように感じた。

 ちなみに、現状ではこの作品だけが「闇」度の加点がなかった。おそらくその部分で上位に競り負けた可能性が高い。

 

 「誰かの傍らに花は咲く」著:りたーんきっずっ(りたーんきっずっ)

 たまたまサークル配置が隣だったということで、新刊を交換させていただいたもの。製本の手作り感と丁寧さが非常に素敵な本であった。

 作者は三角海さんと三ヶ月一月さんのお二人で、どうやらぼくが出会ったのは三ヶ月さんの方だったようである。それぞれ二作ずつ、合計四作からなる短編集であるが、そのどれもが粒ぞろいで、丁寧さを感じる作りになっている。無駄に字数を費やすことなく、深く吟味された文章たちは、どれも等しく淡く花咲くように流れていく。ジャンルとしては恋愛小説、青春小説といった趣きで、全て並々ならぬ熱意をもって執筆されているというのがひしひしと伝わってくるすごい短編たちであった。

 たぶんぼくがこういうジャンルが好きだったら文句なしてトップを独占するんだろうなあ、という完成度なので、気になった方は次回訪問してみてはいかがだろうか。

 

 「終末」著:ペンシルビバップ(ペンシルビバップ

 少し前に紹介したような記憶があるが、ぼくがここ数年で最も創作意欲のあふれる小説家集団だと思っているサークル、ペンシルビバップの既刊である。ちょっと前の既刊だが、今回初めて目にしたのと、テーマ的に面白そうだったのでいただいてきた。このサークルのイメージを一言で説明すると、「セミプロ/プロレベルの書き手が全力で文芸部っぽいことをやるとこうなる」的な感じの合同誌を年4冊出している。一次創作の合同誌を年4冊も、3年以上にわたって出し続けているのだからすごい。ちなみに本作はペンシルビバップの12番目の合同誌にあたる。わけがわからない。生産力高すぎでしょ。高杉晋作ですよ(正規の高杉晋作が出ました!!!!)

 さて気を取り直すと、文字通り各メンバーが「終末」をテーマにした短編をお互いぶつけ合ったというものすごくシンプルな合同誌である。巻頭の鋼野さんから巻末の川和さんまで、全員が全員、死線をいくつも潜り抜けた歴戦の小説家であることを感じさせるような、海千山千の文章になっているのが非常に趣深い。ちなみにぼくは綿貫亘さんの小説が好きで、どの合同誌を読んでもトップか次点のどちらかにはこの人の小説がくる。ちなみに今回の「灰色の射手」は特有のリズムと緻密な展開が素敵だった。今作はどれも全体的に好きではあるのだが、なかでも白眉といえる。

 ただ、テーマが非常に強いワードであったためか、わりと全員の着想が似通っていて、いつものバリエーションが利いたものではなかったかなあというのがイマイチポイントではある。いつもはテーマへの着想が広く、いい意味で「雑味」があり、それが本の持ち味になっていたところがあったので、少し残念に思えた。

 ちなみに新刊はこれから読みます。

 

 というような形で、残るはあと2冊。これを読み終わったときに順位が決定するので、その中で惜しくも上位に入らなかった2冊について、また同じようにまとめるつもりである。

 読ませていただいたからにはきちんと批評したいという思いがあるので、こう、どうしても文体が若干偉そうになってしまうのは本当にご容赦ください。かーびぃここはちょっとへりくだれないところあるんで、何卒。

徐々に老けていく感覚と対峙しながら今を生き続ける

 どうもかーびぃです。

 

 つーわけで、文学フリマ東京に参加してきました。頒布実績としてはかなり低めではあるものの、初の孤軍全通を経験したうえでいえば、そこそこの実績になったのではないだろうかと思うわけで。まずまずでしょう。

 で、そこにいる人に店番を頼んだりなんだりして、お世話になっているサークルやゆかりのあるサークルのほかに、数点ほど同人誌を仕入れてきた。としはとりたくない。

 で、先回の頒布物を結局読み切ることができなかった反省をいかして、読書リストを作って、その中でいったん整理してしまおうと考えた。そして、記事にするというプレッシャーを軽減するために、一つの記事にまとめるのは1つのイベントごとにこちらが選んだ3冊のみという形にしようと思う。そうすれば、変に身構えることもなく、途中でやめてしまう事象を最低限にすることができるだろう。さっそくリストに登録したら、自分の新刊(ベンチマークとして登録)を含めて9冊なので、8冊も手に入れたということになる。

 で、その選び方なのだが、端的にいうと、こちらで主観的に評点をつけて、その点数が高いほうから3冊、という形に統一する。評点は100点+αが満点で、下記のような構成になっている。

 1.通読性(30点満点)

 端的に言うと、「読みやすさ」である。単に文章自体が読みやすいかどうかだけでなく、「内容として読み続けられるに耐えうるものか」「読み返すような中毒性があるか」などをひっくるめてこのように表現している。したがって、多くの人が共感しやすいであろう文章には比較的高めの点数が、逆に難解で読みこなしにくかったり、人を分けるような表現が少なくない場合には低めの点数を割り振ることにしたい。

 2.宇宙感(30点満点)

 「世界観」および「作家性」に近い。要は、「その書き手なりの、単なる手癖でない独自の世界」が出ているかどうかで、その本自体にある「深み」「コク」などをひっくるめたものである。これは読んだ気分で上下しやすいものでもあるが、しかしこのような観点で見ないことにはどうしようもないので一つの基軸として採用した。書き手が見えて来ないタイプの文章には低い点数を割り振るだろう。

 3.残響度(30点満点)

 端的に言えば「読後感」である。読み終わった上で、何を考えたのか、その作品が自分に何を残したのか、それは何かを考えるうえで足がかりになりうるものかを中心に点数を割り振る。読んで何も残らないタイプの小説は結構あるが、そういったタイプのものは評点が高くならない。

 4.嗜好(10点満点)

 細かいことを抜きにして、ぼく自身が「この本、10段階評価でどれくらい好きですか?」と聞かれた場合に回答する点数である。したがって、ここまでの評点が高い場合は、おのずとこの点数も高い場合がほとんどだろう。だが、かーびぃというのは時に複雑なので、「ぼくは嫌いだけどこの本はすごい」という場合は、評点が高くても嗜好に点が入ってなかったりするし、それに今までの3分野に関しては、文章を中心とした評価であるが、この部分に関しては本全体(表紙や装丁、校正等)をひっくるめた話になるので、例えばすごくいい小説が入っていたのに装丁が残念だったりするとそれほど高い点数にはならない場合がある。

 5.闇度(ボーナスポイント:10点が最大)

 その本に「闇」を感じるかどうかで、主観的に評価する。評価は「感じない」から「こいつはやばい」まで5+1段階あり、それぞれの評価に応じた点数が、ここまでの点数に追加される。

 つまり、理論上の最大点数は、110点であるが、便宜上100点満点ということで、よろしくお願いしたい。

 ちなみに、さっき読み終わった本と自分の新刊を評価した結果、評点的には50点を超えればまあまあ、60点以上で確実に上位(ただし、ベスト3に入るかどうかは微妙)、というような塩梅だろうと推察する。だいたいそんな感じである。

 

 こうでもしないと頑張れない気がするし、こうしても頑張らなさそう。

そうだぼくらはみんなEsdurが恋しいんだ

 どうもかーびぃです。なんか月1くらいの更新スピードになってるね。まあ仕方ないね、ゲームで忙しいから。

 

 多分これは僕だけではないと信じたいのだが、バンプオブチキンはやたらとEsdur(変ホ長調)とAsdur(変イ長調)を主調として選びがちだし、というかもう楽譜の一番最初にフラットがいっぱいついてて、曲の合間に適当に「オウイエ~ア~ハ~ン」とか言ってればだいたいバンプっぽくなるような気すらしてくるくらい、聞いてすぐわかるレベルのバンド性を出しているよなあ、などと思うし、そこまで聞いているのになぜぼくはラッドウィンプスとの違いを聞き分けられないのだろうか、とも思うわけだがそれは別のジャンルの話なのでここでは割愛する。

 

 むかしむかし、学生時代、かーびぃが球体の生物になるかならないかくらいのころ、とあるサークルに所属していたのだが、そこでネットラジオのメインディレクター的なことをしていた。全体の流れとか動きとか、まあだいたいA41枚くらいに放送1回分(30分程度)をまとめてくるような、めちゃくちゃ頭の悪い上に場当たり的な現場合わせ的なことをやっていたのだが、みんなそれなりに場を切り盛りするのがうまかったし、ぼくもそれなりに編集技術があったので、まあそこそこの出来でやってきていたような記憶が勝手にある。

 で、なんかまたネットラジオをやってみたいな~なんて思い始めてたら、頭の中に企画書が降ってきた。もっともこれが神の啓示でもなんでもなく、ただ単に自分の趣味をひたすら音声で語るの面白そうじゃね?っていうなんかどうせすぐに飽きるんだろうな的なやつである。

 かーびぃの趣味になりつつあるのが、「古くはないが、もはや全く新しくはない取り残されたゲームをプレイする」っていうもので、PS2片手にRPGを中心にやっている。この前までFF12をやっていたんだけど、さすがに82時間もやっていると飽きてしまって、全部敵を倒す前にエンディングを見てしまった。なんとかオフとかなんとかキングとかでワゴンにほっぽりだされているような雑な扱いをされているゲームを拾ってやってみるの、なかなか刺激的だし、その中からなんとか面白そうなやつ(例えば、名前は聞いたことがあるとか、知っている声優が出ているとか)を拾ってやってみるの、今更を通り越してもはやある種の冒険である。もっとも、こちらのPS2はいわゆる第2世代(薄くはない)で、DVDポケットがそろそろ限界でボロボロでもまだ遊べるというレベルなので、いつお亡くなり遊ばれてもおかしくないし、その場合それこそ買い直しが難しくなりつつあるハードなので、頃合いをみてなんとかオフだので在庫を確認する癖がついてしまった。

 まだ、なんとか積みゲーはない。というかまだ仕入れ作業をほとんどしていない。なぜかというとまだ実家にプレイしていないゲームがいくつもあるからである。ワゴンセールのゲームを買いあさる癖は今に始まったわけではないので、数年前にワゴンセールで買ったものが、まだ積まれたままになっているのである。

 とどのつまり、これラジオでしゃべったら面白くね?っていうそれだけの話なわけで。この趣味が詰まったらもうそこで終了だし、だいたいゲームつってもわしRPGくらいしかやらないからプレイ時間長いし、どうすんねんっていう。

 

 文フリ東京出ます。G-17「そりゃたいへんだ。」、今までの既刊および新刊「順列からの解放」(ひざのうらはやお第4短編集)を持っていきます。よろしこ。

逃げ出すほど弱くないさ拳を握れ

 どうもかーびぃです。実に1か月の間更新しなかった。こりゃたいへんだ。

 

 まあそんなことはともかく、文学フリマ東京に一応「そりゃたいへんだ。」として出ます。一応、というのは、今回ユニットとしての新刊は出せそうにないということと、その代わりと言っちゃなんだがひざのうらはやおの個人誌が久々に出そうですよということ。そう、短編集「順列からの解放」がもうすぐ完成というところまできた。短編の原稿はすべて完了、あとはあとがきと表紙の発注を残すのみとなった。それなりに頑張った短編たちなので、余力のある人はぜひともお手に取ってほしい。頒布価格は500円を予定しています。大まかにいうと「妄想」とほぼ同じくらいの大きさ・厚さになる模様です。「妄想」こと「妄想の中で(以下略)」も頒布します。

 あとなんか知らないけど京都に行ったことがないというのが原因で文フリ京都にも申し込んでみました。こちらは「まんまる書房」というあらたな名義を使うつもりです。できれば長編を作って持っていきたい。そろそろ書きたい。救いようのないSFとか書きたい。長編を書く体力が欲しい。

 

 プラレールって思った以上に宇宙で、どれくらい宇宙かというと、アマゾンでいくらでも商品を眺めていられるくらいには宇宙なのである。

 なーむー。

 おぶつだんのーはせがわー

コラージュしていく世界

 どうもかーびぃです。久々だ。ネット回線が通ってるっていいですね。

 

 いつのまにか実家を飛び出して一人暮らしをしていたわけであるが、安定した回線がつながるようになったのはつい最近のことである。そのため、様々なことが滞ってしまい、いろいろな人に迷惑をかけてしまっている。申し訳ないです。正直ぼくもここまでのスピードで新居が決まるとは思わなかったもので(言い訳になってない)

 

 随分前にどこかのCMか何か、いや、もしかするとブログだったか、はたまたぼくの妄想なのか、もはやわからなくなってしまったが、「私は私の元彼たちと分身を交換し合って生きている」みたいなワードを見て、ふと、「人間ってコラージュだよなあ」などというスーパー身もふたもないことを思ってしまったわけなのだが、最近そんなことをふと思う。話し方や動き、文章の手癖に至るまで、生まれつき受容する性質は当然あるであろうが、大半は出会った人間のそれで決定されるのだ。自力で料理を作れなかった時期、誰の作ったものを食べていたかで本人の味の嗜好から調理方法までそれが反映されているのと同じこと、もとい同根にある。

 

 この年齢になっても自分の嗜好の核というものがあるのかないのかすら曖昧なくらい定まっていないというのはどこか不気味で、それゆえに不安なのだ。例えば何かに熱中する。けれどそれは自分の核になるまでにはすごく時間がかかるわけで、そこまで身についたものというのは実はほとんどなく、逆に考えると身についているのは常に文章を書き続けるということだけで、それほどまでに大きな枠組みしかないのだから嗜好の核なんてなくて当然なのかもしれない。

 かーびぃ氏いまねえ原稿書いてるモードでこれ書いてるからね、いつものやつ的な文体じゃなくて何言ってんのかわからない感じの文体になってるんですよ。つってものうみその スイッチってそんなに簡単に変えられないじゃないですか。というか簡単に変えられたらさあ、世の中もうちょっとマシって話。

 おそらくぼく自身が能動的な思考ではないので、結果ありきでそこから先の計画を立てることしかできないのではないかと思う。例えば文章の手癖や好きになる人にしたってそうである。最終的に今まで歩んできた実績から、なるほどぼくはこういう女の子が好きなんだなあっていうことだったりとか、こういう文章を読んでいるんだなあということがわかるわけで。それは人がコラージュで形成されているということにも少し似ている。ぼくはコラージュのもとがどういう成分でできているのか、ある程度見極めることはできるが。先が読めないというのはそういう意味では正しい。だって過去と同系列上に未来があるとは限らないのである。例えば観測の範囲外から突然小惑星が落ちて来たら今まで描いていた軌道とは全く関係なくなってしまう。ぼくはそういうことが苦手だ。常に一寸先は闇で生きている。一寸先が見えた瞬間に持ち前の反射神経でどうにかして生きているだけなので、そのスケールを超えたものに関しては誰かに頼んでどうにかする以外にどうにかできないのである。というか、どうすれば先が読めるのか教えてほしいくらいで、もっとも教えてもらったところでできそうになさそうというかそういう感じだ。

 

 てなわけで、短編集が出ます。いや、出します。無理にでも出します。5作のうち3つまで完成しましたぞ。もうちょいやんけ。頑張るぞ。