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かーびぃのメモ帳

球体の生物が日々感じたことをつぶやくよ!

蜃気楼の先にあるものが恐怖と絶望だったとしても気づかないのが普通の人間ってわけ

 どうもかーびぃです。

 

 最近思わせぶりなタイトルにして中身が適当なことが多い。知るか、そんなもんかーびぃは知ったこっちゃないんだ。

 

 ここ2週間くらい、ADHDの症状がやたらにひどくなっている気がする。書類の深刻なミスがやたら多いし、制服を持って帰ろうと思ったのに忘れたり、薬を飲むのを忘れそうになったりしているのだが、しかし原因は何か特定できないのが恐ろしいところで、思い当たる要素が見当たらないのである。これが困る。解消のしようがない。解消のしようがないからさらにストレスが溜まる、そしてそのせいでミスが増える、この繰り返しだ。しかもこれから繁忙期で本格的に死ぬのでやばい。なにがやばいって全部やばい。

 進捗。あるようでない。長編は進まないし短編も微妙な進捗で、まだまだ道が遠く見えるし、これ下手したら秋に間に合わないんじゃね?とすら思い始めた。書きたい欲はじゅうぶんにあるのだけれど、書けば書くほど場面の進行が遅くなり、物語の推進力がどんどん落ちていく。ひとつところで地の文だけがひたすら書きなぐられていく感じ。一番よくないパターンである。ひたすら幻想的で美しい雰囲気の小説を書きたいのに、いざ書いてみるとそういう感じにはならなくて、ぼくはとことんその才能がないことを思い知らされる。透明感のあって美しい文章を書ける人間というのは多いようでいて実は限られている。感性の問題のようでいて、感性だけではなくて、本来であれば言葉にできない雰囲気を言葉の中に織り交ぜるというテクニックが必要になってくるからであり、まさにそれは行間を読むことができ、また行間を表現できる人間でしかできない。そして、行間を読むことのできる人間はぼくらが想像している以上に少ないので、そういった文章が大衆にもてはやされることはいまやほとんどない。なぜなら批評家が幅を利かせていないし、そうなったのは行間をあらわにする技法が実質すたれていったからだろう。人々はわかりやすい表現技法を好んだ。小説より漫画、映画よりテレビ、といった具合に。だから小説は売れるために「ラノベ」化していっているというのがぼくの妄想である。本当のところはどうか知らない。

 キメ打ちされた文章を書いて、そこに照準を合わせられるように誘導するという行為そのものに自己嫌悪を覚えるタイプの人間にそういう文章は書けない。その文章を軸として、すべてが透明化しているように見せかける構造というのが、全体を幻想的に見せるひとつの要因なのではないかとぼくは思う。書いてみただけ。

 それは諦めて別の方法を探すか、そもそもそういう文章を書かない、という手段も取れる。まあもっとも、今書こうとしているものにそういう雰囲気のもの自体がないので、それはありがたいというか、成長していないというか、つまりは楽に書けるはずなのである、比較的に。

 で、これから繁忙期に入ってくるわけだけど、この小説の進捗はどうするんだいっていう。まあいいか。

 誰かにとっての唯一なんて、なれたらそれにこしたことはないんだろうけれど、なったらなったでその人のすべてに縛り付けられてしまうから、そんな柵に絡めとられてしまうならぼくは誰にも必要とされたくないし必要とされようとも思わない。ほんの少しの間だけ、こっちを向いていてくれればそれでいいのだ。いや、本当はもっと欲深くて、ぼくが見ている間くらいはこっちを見ていてほしいというのが本音だけれど、それは醜いと自覚しているから期待はしないということにする。

 的な小説の書き出しどうよ。いかにもかーびぃの書き出しっぽくないですかね。