かーびぃのメモ帳

球体の生物が日々感じたことをつぶやくよ!

壊れた時計の文字は直らないまま曲がり続ける

 どうもかーびぃです。

 

 時間について、ぼくは何度か言及している。それほどまでに、ぼくの時間に関する執着は深い。何かにつけて、時間が経過していることを感じずにはいられないのだ。そして、どこか一地点で失敗をすると、その後も失敗は取り戻されることなく時間が流れ続ける。それが分かれ道みたいになるところがある。失敗だけではない、ひとつひとつの選択、そのタイミングの違いでも結果は全く違うものになってしまう。立ち止まって思考することが不可能なところが、難易度を高くしている。エロゲやドラクエみたいに、選択肢は立ち止まってくれない。

 

 ツイッターを結構長くやっているけれど、その中でもフォローしているのはだいたいは同年代の人間で、それも大学時代からさほど増えていないので、5年以上その流れを見ていると、「そういえばであったときはあの人がこうなるとは思いもしなかったな」というような自分勝手な感傷めいた感情が起こることがある。そのときそのときでは特に何とも思っていなかったのだが、それが年単位に蓄積されると、随分と異なる印象を持つものだ。まっすぐ歩いている人もいれば(ぼくは他人から見たらかなりまっすぐ歩いているほうなのではないか、と思う)、いろいろ寄り道している人もいるし、中には立ち止まってよく考えている人もいる。寄り道している人は、魅力的な人が多くて、そうだよなあ、まっすぐ歩いているなんてつまらないんじゃないか、なんて思っているけれど、ぼくはとどのつまり寄り道したら最後元に戻れなくなるような体質であることを自覚しているから、道を急いだし、それでも立ち止まりかけたことは何度もある。というか、現在進行形で立ち止まりかけているといったほうがいいのかもしれない。

 

 などと考えたのは、もう年の瀬で、今年ももうあと半月程度になったからだった。2015年、ぼくの中ではさほど大きな変化はなかった年であった。今までで一番早く通り過ぎた年だったと思う。もちろん、変化がなかったわけではないのだが、昨年の継続ということを考えると非常にそれに従った動きで、より日常感が増したような一年だった。これでも他人から見たらだいぶ変化のあったのかもしれないが、ぼくとしてはただ、死んでいるような一年であったと記述しても差支えがない。いいことの5倍くらい悪いことが起きた。厄年は伊達じゃない。まあ、死にはしないだけましなのだろうか。

 

 なんかこの後に「日本って先進国って言ってるけどいうほどじゃなくね?」みたいなことを書こうと思ったんだけどめんどくさくなってきた。