日本ごうがふかいな協会広報

日本ごうがふかいな協会の広報ブログです。

無数の人間が交錯した現実とそうでない幻想のどちらかがよりイマジナリー

 どうもおもちくんです。

 

 文フリ前橋シーズン、上位は予想外の戦いになったのだが、今回3位になったこの作品もなかなかに予想外であった。

 

 平成を代表するバンドのひとつとして、割と多くの人が思い浮かべるなか、あまり主張する人の少ない気がするもののひとつだと思うのが、スピッツである。こう書いてなるほどと思う人はかなりいるのではないか。そのスピッツの名盤「ハチミツ」の表題曲「ハチミツ」の、持っている雰囲気と歌詞とサウンドが、スピッツらしい最たる曲ではないかなと思う。自然体のように紡ぎ出される渾身のプレイは、ぼくがあこがれるひとつのパフォーマーとしてのあるべき姿だといつも思う。

 

「文庫本の表紙」著:カカロットおじさん(オミカワークス)

 文体:31 空間:30 (半客観分野:61)

 感覚:30 GF:33 (主観分野:63)

 闇度:0.396 レート:なし

 総合点:124.396(文フリ前橋2シーズン 3位)

 

 ということで、前ステージで行われた文フリ岩手シーズンで1位になったカカロットおじさん氏が、見事記事化されることとなった。氏の紡いでいる小説は、まさに純文学というジャンルが持つ曖昧模糊としたイメージを、その曖昧さを持ったままはっきりと読者に投げかけるような、まさに純文学らしさというものを突き詰めた作品であると思う。前作「床に散らばるチョコレート」もそのような、純粋なまでの叙景力、抒情力というような、まさに描写力の高さというのが純文学というカテゴリー上でどのような表現をもって顕現させられるのか、というものを見せられたようなところがあるのだが、今作はその力がさらに強くなっていて、どれもすらすらと読めるなか、語られている情景がすぐさま浮かび上がって、場面という四次元の世界を、読者の読解力にゆだねることなくさっぱりと表現しきっているという点で、高度な描写力をもっているといえるし、ここまで読んできた様々な同人小説作品の中では、かなり上位に入ってくるレベルだろうと思う。場面設定のシンプルさが、描写力をさらに際立たせているのも、単に描写力の卓越ではないことを示している。

 文フリ前橋シーズンは、こと純粋な文体のひとが多かった。ぼくがそれを求めたのか、そういう人が本当に多かったのかはわからないが、その純粋さという点においては、氏の作品がかなり筆頭に上がってくるものと思われる。

 

 次回は、文フリ前橋で見つけることのできた書き手で、今までどうして出会わなかったのだろうと思うくらいの、これまた叙述力の高いひとがいたので、その作品をご紹介しようと思う。

前橋行者ニンニクせんべい

 どうもおもちくんです。そんなものはない。

 

 さて、文フリ前橋シーズンが確定したので、まずは選外まとめから書いていきたいと思う。

 

「ひとつの夜明け前」著:ぺの(New 原始人)

 短編集自体は全体を通してシンプルな作りで、ゆめうつつなところを表現する気持ちの悪さ、みたいなものを主体として書かれていたものだったのだが、それ以上におどろいたのが、この作品群がラジオ上で連載されているということだった。ラジオ番組に小説を連載できる場があるのか!と思わずうなってしまった。そんなプラットフォームを考えたことすらなかったからだ。ぼくもそんな番組を作りたいなと思った。

 

「水曜日しか知らない愛情/僕の訃報が僕から届く」著:Debby Pump

 これまた素朴な歌集。ぼくは短歌の素養がほとんどないから、これがどのような表現技法なのか、まったくわからないのだが、とにかく素朴なのだ。奇をてらっているさまさえ素朴に見えてしまう。コピー本ゆえなのかもしれないが、それすら作者が選択したのであればすごいものだなと思う。

 

「艦娘妄藻録」著:青銭兵六(POINT ZERO)

 ハードボイルドな作風で有名な青銭兵六氏による、「艦隊これくしょん(艦これ)」の二次創作小説集。三種の艦船に関して、ひとつずつ丁寧に描かれている。艦娘、に限定されないその描き方は、氏が艦娘というひとつの微分されたキャラクターのみならず、元ネタの艦船までも愛しているというひとつの意思表明のようなものだろう。誠実な艦これ愛を感じる作品集だっただけに、氏の持ち味であろうハードボイルドさや皮肉さはすこし影を潜めている。

 

「あなたも私もある種の図形」著:紙男(シキシ文藝)

 紙男氏は前回のテキレボだったかでフォローさせていただいたのだが、この人の「ついのべ(1ツイートで完結する小説様の散文)」はなぜか読めてしまうので、ずっとフォローしている。ぼくはついのべというものに否定的である。自分で創り出すことが出来ないところによるひがみがあるのだろうと思うのだが、なんというか妙な嫌悪感があってなかなか積極的に見ようとは思わなかっただけに、紙男氏のついのべを普通に読んでいる自分がどこか不思議なのだ。とはいいつつも実はこの短編集についのべは関係ない。図形をモチーフにした短編集で、ショートショートのようなキレのある小説が並ぶ。星新一のようなユーモアもあり、西尾維新のようなぶっとびエンタメもあり、かなりの振れ幅を見せながら、紙男節、のような独特なセンスを失わない稀有な作品集であるように思う。図形のアラカルトでありながら氏の文体アラカルトでもあると思う。

 

「微睡する自律演算装置」著:三日月 理音(HONKY-TONK)

 世界観が非常に好みだった。ある国で代書屋を営んでいる青年の運命についての短編。中盤からの怒涛の展開は非常にわくわくするし、このような二段構えが本当に好きだ。あんまり細かく書いてしまうとネタバレになってしまうところが惜しい。

 

「Radioactivity」著:Debby Pump

 これは、なんというか、もっとたくさんの人にきちんと読んで欲しいな、と思った。短編集なのだが、タイトルは「放射能」の英訳であることが収録作からわかる。その名の通りというか、この作品のすべてに、潔癖なまでに通底しているのが「犠牲者への祈り」で、その概念がおそらく東日本大震災に端を発しているのではなかろうかと思われる。関東でも、九州でも、台湾でも、タイでも、どの舞台においても、作者による静かな黙祷がある。これはすさまじい。氏は朴訥な文体を基本としているだけに、それがとてもよく表れている。そして前述したように舞台がワールドワイドなのである。東日本大震災に端を発したであろう祈りなのに、その範囲が日本を超えてリンクしていく。素朴なコピー本に収められたものとしてはあまりにも大きなテーマであるが、しかし、だからこそのコピー本なのだろうな、とも思う。

 これは単純な感想なのだが、多分、この作品集は横書きの方がより素晴らしさを感じられると思う。なんとなく、縦書きは閉じた印象を与えてしまうような気がするのだ。

 

 以上が、惜しくも選外になってしまったもののコメントである。

 特に、最後にコメントした「Radioactivity」については、本当に記事化したいくらいに素晴らしいものであったのだが、惜しくも3位との記事化争いに敗れてしまったことをここで付け加えさせていただく。

 

 さて、3位は前ステージでもその力をいかんなく発揮した、あの人の新作である。

 近日、記事化予定。

 

 

主語がないレクイエムは何かを捨てていることと同義である

 どうもおもちくんです。

 ようやく、文フリ京都シーズンもこの記事で最後となった。長く、かなり体力を使ったシーズンであった。体感でいえば前ステージのあまぶんシーズンやテキレボ6シーズン以上の大変さだったと思う。読み応えがあるものばかりで、投げ出したものもかなり出してしまった。22作品中2作も落としたのはちょっと多いような気もするが、致し方がないとも思う。

 

 平成時代を代表するバンドはいくつかある。Mr.childrenスピッツ東京事変ナンバーガール等々とある中で、昭和に片足を突っ込んではいるが平成のサブカルチャーの一部分を完全に形成したという意味で、筋肉少女帯は平成時代を代表するバンドのひとつだといえるだろう。活動再開後にリリースしたアルバム「蔦からまるQの惑星」に、「捨て曲のマリア」という曲がある。何気なく作った「捨て曲」が、作者のひととなり、ものの考え方、その他様々なものを反映させ、また想定外にウケる、だけど作った自分は全然納得してない、ああ世の中もこの曲もやだなあ、という感じの歌詞が、ちょっとアーバンな曲調に乗って歌われる。

 だが、世の中そんなうまい話はない、とぼくは思う。いわゆる売れる売れないという客観的でひどく即物的な価値は、自分の価値基準とは異なるところにあるものだ。書き手を5年、文章を書き始めて10年のぼくには痛いほどわかる。そして、「捨て曲」のように作ったものが、作者の「ごうがふかいな」を最大限に引き出しているという神話。これもわかる。ことぼくをはじめとした書き手というのはわかりやすく、かつひねくれているということがわかる話にしたがる。

 けれど、現実はそうとは限らない。当たるも八卦当たらぬも八卦、ぶっちゃけていえば渾身の作品はスルーされることもあればウケることもあるし、逆に適当につくったものでもウケることもあれば順当にコケることだってある。大きな流れの中に身を置けばそれなりに大コケは回避できるだろうけれど、流れを読む労力とはなかなか釣り合わない。同人の世界はそういう運ゲーで満たされている。もちろん、売れることが正解とも限らない。そういう運ゲーである。なにがなんだかわからない世界で、なにがなんだかわからないことを怖がっている場合ではないのだ。

 

「すな子へ」著:泉由良(白昼社)

文体:32 空間:32 (半客観分野:64)

感覚:36 GF:37  (主観分野:73)

闇度:0.592 レート:なし

総合点:137.592(文フリ京都2シーズン 1位)

 

 あの、すみませんマクラの話はここと全然関係ないので置いといてもらっていいですか、すみません。

 というわけで、前シーズンでも記事化された泉由良氏が連続する2つのシーズンで記事化された。これは今ステージにおいては絶対王者たる師匠、咲祈氏と並ぶ記録で、昨ステージを合わせても歴代4人目(相楽愛花氏、佐々木海月氏は昨ステージで達成)の大記録である。また、この中でノンレート、すなわち書き手レートがない書き手は泉由良氏だけである。レートというのは固定書き手による、昨ステージの評点状況に応じたハンデ点制度のことで、書き手の(ぼく個人から見た)レベルを端的に表現し、かつそれに応じたハンデを施すことで、未読の書き手により注目が集まるだろうと考えて今ステージから導入したものである。

 つまり何が言いたいかというと、それだけ泉由良氏が、少なくともぼくの中では相当な書き手になっているということである。少なくとも、まんまる四天王と同じかもしくはそれ以上の水準にあるべきひとである。

 そんなことはさておくとして内容だが、大きく分けるとふたつの掌編が収録されている。これらは互いに交錯しているようでしていない、いやちょっとしてる、みたいな感じの関連性で、ぼくは後半部分の小説に大きく心を奪われた。

(ぼくが「心を奪われた」なんて表現はそうそうしないと思う。ためしにこのメモ帳を検索してみてほしい、この記事しかヒットしないはずだ。確かめたわけじゃないけど)

 心中もの、と表現するにはあまりにも壮絶な作中人物の激情を、淡々とした地の文と激しい心情描写のコントラストで表しているさまが本当にすさまじすぎて、文字通りぼくは通勤中の武蔵野線で絶叫しそうになった。まじで。

 前半の小説も、後半を読み返してから戻ってくるとさまざまなことを想起させられる。詩的で平坦なテンションながら、非常に示唆的でおもしろい。

 某氏がこの作品あたりから泉由良氏のギアが上がってくるよ、と言っていたのを思い出した。だとすればここから先のシーズンに設置された氏の作品はどれもとんでもない破壊力を持っているのではないかと、ふと思う。

 いや、本当に読んでほしいものほど読んでほしいとしか言えなくなる。困ったところだ。コメントがそれだけでは作者と同じになってしまうではないか。と、ここまで書いたところで、小説ってつまりは、どこかで作者と一体化する場面ってあるんじゃないかなと思った。この作品でいえば、それは前半と後半が入り混じる結節点、ちょうど真ん中の部分ではないかと思う。なんとなく、祈るような、そんな気分になる。作者がどう考えているのかは抜きにして。

 

 ということで、とっ散らかっているのが今回なわけであるが、しかしながら泉由良氏の作品はどれもこれも圧倒的な詩的パワーを感じる。「ポエジー」の語感的な妄想の中での意味に近いあの感じである。自分でも何を書いているのかよくわからないけど。この記事読んでなんだこれって思った人はみんな買おう。アマゾンにも置いてあるとかないとか(調べてない)。

 

 さて、これから文フリ前橋シーズンに入りたい。作品数も量も今回と比べるとだいぶ抑えめなので、そんなに時間がかからないことを祈る。

人生の地図など役に立たない

 どうもおもちくんです。

 

 文フリ京都シーズンも残り2冊だ。このシーズンは読み切るためにかなりの時間を要した。というのは、単純に冊数が多かったのもあるが、その密度もかなり高く、また読ませられるかどうかはともかくとして、質の高い書き手が多く、思わず未読了処理をしかけたものも多かった。非常に体力を使った強シーズンであったと思う。

 さて、中でもぼくのシーズンレース観とも言うべきか、そういったパッケージ上の概念を破壊されたのが、この2位の作品である。

 

 もはやマクラとして常連になっている、というか先回でも取り上げたばかりで申し訳ないのだが、抒情的ロックバンド9mm Parabellum Bulletの曲に、「コスモス」という曲がある。個人的には超名盤だと思っている「Dawning」に収録されている作品だが、静かながら叙景的でありかつ抒情的な歌詞が淡々と(9ミリ基準で)歌われており、それが余計に聴き手のエモーションを刺激していく曲である。9ミリの曲は、サウンドももちろんなのだが、歌詞が非常にエモーショナルなところがとても好きである。

 

「恋とはどんなものかしら」著:madelene(モノカキヤ)

文体:29 空間:33 (半客観分野:62)

感覚:32 GF:40 (主観分野:72)

闇度:0.64 レートなし

総合点:134.64(文フリ京都シーズン2位 ごうがふかいな賞)

 

 弊社企画のラブホアンソロの書き手のひとりである、ごうがふかいなの名手であるところのmadelene氏(以下、まど氏)による、連作掌編集。八郎というひとりの男にまつわる拾遺のような小説群なのだが、ひとつひとつが砲弾のように重たく、強く心をえぐっていく。八郎が特異な存在であることが徐々に明らかになりつつ、それらが八郎を取り巻く人間たちによって与えられたものであったことが、最後の文章で明らかになるという構造は、スタンダードながらフリとオチが非常にはっきりしているだけに鮮烈。実は、この作品は新装版がすでに頒布されているのだが、ぼくが手に取っているのは旧装版。これはいわゆる中綴じコピー本とよばれる簡素な装丁で、その表紙の絵も、本人が描いたのだろうと思われるようなファンシーで様々なモチーフがちりばめられているのだが、この理由も本文を読んでいくと次第にあきらかになる。構成という点で、意表を突かせるところと予定調和を完成させるところのメリハリが効いていて、読み手の呼吸に寄り添った作品であると感じた。

 まど氏は、ぼくが普段取り上げている書き手とは一線を画したスタイルをとっていると常々思っているのだが、それが最も出ているのが、この読み手の呼吸を完全にほど近いレベルまでに意識した文章づくりなのではないかと思う。多くの書き手、ぼくもまさにその「多く」に入るわけであるが、たいていは書き手の呼吸というものが前提としてあって、そこから読み手の呼吸を意識したり、時には自らが読み手となって仮想の読み手を想起する、というのがオーソドックスな文章づくりの手法なのだろうと思うのだが、まど氏は、徹底的に読み手サイドに立ちながら、書き手としての技量を発揮できるという点がなかなかない才であるなあと思う。ぼくはまど氏の作品を、多くの書き手、特に自らの書くものに対していまひとつ満足を得られなかったり、思っていたほどの評価がなかったりすることに悩む書き手には読んでいただきたいと思っている。きっと新しい世界が見えるのではないかと思う。

 もっとも、見えたところでたいていは、自分のスタイルを貫き通すか、変奏するかのいずれかでしか対応できないのが、天才でもなんでもない人間に唯一与えられた行為ではあるのだけれど。

 

 さて、次で文フリ京都シーズンは最後である。最後に登場する書き手も、実はラブホアンソロに寄稿してくださる方だ。ノンレートであることに異論があるくらい強い書き手であるが、その関係については文フリ前橋シーズン終了後にちょっとしたアナウンスをしようと思う。

遥かなる蒼を泳ぐか投げるか

 どうもおもちくんです。

 

 物悲しい季節であるが、文フリ京都は次回の方が近くなってしまった。

 さて、ここで3位の作品を紹介していきたいと思う。

 

 抒情的なロックバンド、9mm Parabellum Bulletに「スタンドバイミー」という曲がある。9ミリには珍しいからりとした曲調に、ふたりだけの世界が展開されているという抒情的にも、表層的にもなりすぎない絶妙な世界観を保つ、隠れた名曲であるように思う。

 9ミリのマクラといえば……そう、このお方である。

 

「ヘヴンリーブルー」著:咲祈(モラトリアムシェルタ)

文体:34 空間:35 (半客観分野:69)

感覚:37 GF:34 (主観分野:71)

闇度:0.612 レート:7.12(E)

総合点:133.492(文フリ京都2シーズン3位)

 

 レート7以上を誇るまんまる双璧の片翼にして、ここまでの登場シーズンをすべて首位で駆け抜け、ここまで数々の記録を打ち立ててきた「師匠」こと咲祈氏であるが、今回も3位に輝き見事記事化となった。しかも、素点は140点を超えており、今ステージ最高評点を獲得している。レートがなければ先回と同じく首位になっていたであろう。

 透明で、どこまでも潜っていけそうな蒼をたたえた空が、この作品の舞台だ。風の力を自在に操ることのできる少年たちが、曲芸によって世に出ていく世界を描いたファンタジー小説。天才であるがゆえに孤独な少年と、天才の登場により芸の舞台から去ることを余儀なくされた、少年だった青年のボーイミーツボーイを、咲祈氏独特のフレーズ感と研ぎ澄まされた描写で克明に描いていく。

 これまで、ぼくは氏の様々な作品に触れてきた。それらはみな圧倒的な世界観を持ち、読者を強烈に引き込むインパクトを持ちながら、華やかにそれでいて儚く、美しくそれでいて芯のあるものばかりで、その中心にある独自のイデオロギー、いわば「咲祈イズム」のようなものが非常に強い軸として、どの作品にも通底して描かれていた。ぼくはそれこそが氏の「ごうがふかいな」であることを信じて疑わなかった。

 しかし、この作品は、その「咲祈イズム」を前面に押し出さず、あくまで、少年と青年の交歓、そして彼らを取り巻いている苛烈な環境の描写に専念されている。それゆえにここまでの作品よりも分量が少ないが、根っからの咲祈ファンであるところのぼくからすると特異でありインパクトが大きいものでもあった。この「ごうがふかいな」を脱して、氏はさらなる物語の深淵を覗き込んでしまったのではないかと思う。

 氏の作品の唯一、大きな特徴としての「咲祈イズム」があったのだが、それを鞘に納めるという手法が現れたところから、師匠の作品はさらに巨大な自由を得たのではないかと思う。いうなれば、中島敦の「名人伝」における「不射之射」であろう。本当に書きたいことをきっちり書くことのできる能力だけでなく、時には書かないことが何よりも表現になるのだ、ということを教えてくれる、そんな作品だった。

 

 さて、次は、ラブホアンソロの書き手にもなる、今回のごうがふかいな賞のあの作品である。こうご期待。