日本ごうがふかいな協会広報

日本ごうがふかいな協会の広報ブログです。

ゴミ箱の中に無限のタネが眠っている可能性だってある

 どうもおもちくんです。

 

 久々の何もない記事です。

 てなわけで、というのもアレだが、文學界新人賞の結果が発表され、拙作「猫にコンドーム」は二次予選敗退以下であることが確定したわけだが。

 応募作2100超から45作が二次予選通過であり、それが誌面発表されるわけで、この時点で自分が通過していること自体絶望的であったのだが、それ以上に知っているペンネームがなにひとつなく、しかもみんな硬そうな名前ばっかりなのに驚いた。「ひざのうらはやお」などというひらがな8文字をぜいたくに使ったペンネームなどない。これでは逆立ちしても入らんだろうな、と思った。

 正直、100作くらいだったら運がよければなんとかいけそうな自信はあった。それくらいには手を入れた作品だったし、純文学としては初めての中編サイズであったこともあって、この「猫にコンドーム」はひざのうらはやお史上最も大切にされている作品であるといってよい。しかし、45作ともなるとさすがに希望はない。なぜなら提出した後でもかなり推敲することが出来たからだった。現在の「猫コン」は提出時の原版からさらに手を加えているし、より力のあるものになっていると自負している。

 ただ、あえて敗戦の弁をもっともらしく述べるならば、この作品はひざのうらはやおとしての持ち味を最も生かした作品ではあるにせよ、いかんせんインパクトが圧倒的に不足しているという致命的な欠点がある。尖ってはいるがぼく自身の文体によってそれは摩耗し、強烈な読後感を与えない。読んだ人間の印象に非常に残りづらい作品である。

 これは何もこの作品に限ったことではなく、ひざのうらはやおの小説全般に言えることではないかと思う。読み手に、ぼくの作品で印象に残るものは、と聞いてもそれほど芳しい答えを得られないのではないだろうか。小説そのものはそれなりの評価をいただいている中で、この、印象にのこる小説というものを書いていかないと、選考はもとより、読み手にも響かないのだろうなと思った。

 逆に言えば、それがない状態でここまで評価を得ているということは、少なくともいろんな書き手がいる中で、上位層に残れるだけの地力はあるのではないかと考えている。だけれど、たとえばある読み手の中で、上位3作品にぼくの作品が入っていたとしても、その人の最上位は別の作品であるように、だれかの最上位に君臨するということを、もっと意識すべきなのではないかと非常に思うのである。

 とはいえ、結論を先に述べてしまうようでアレなのだが、ぼく自身、だれかの最上位に君臨することのできるような書き手にはなれないと考えている。そこまでだれか、個人になにかをコミットするということそのものを禁忌として生きてきている以上、そんなことは不可能であるように思う。おそらくだが、商業の小説家として、いっぱしの文学屋として戦っていくにはその辺の極めて高い精度と、あえて踏み込みに行く胆力が必要不可欠であり、ぼくにはどちらもそれを持ちえないものであると考えている。だからぼくは出来るだけ、持続可能な範囲で同人を続けていくよりほかにないのである。

 

 でまあ、そこまで考えたうえで、なんとなく元号が変わるというこの空気に乗っかってもう一作純文学中編を書いたわけである。それが「さらば、目に映るすべてたち」という作品で、平成が終わる、というただそれだけのワードを限界まで赤方遷移させて平成!宗教!サブカル!極限修行!みたいなのが跋扈するかなり頭の悪い小説になった。これは群像新人賞に出そうと思ったが明らかに完成度不足だった上にいろいろと考えてやめた。その辞めた理由というのが、上記の「猫にコンドーム」と合わせると面白そうだと考えたためである。この「さらば」は加筆修正の過程で前後編2編に分かれて、それぞれ「平成デッドエンド」「平成アポカリプス」という2つの小説に分離した。前編となる「平成デッドエンド」も、後編となる「平成アポカリプス」も、ぼくが今まで使ってこなかった手法や構成がふんだんに用いられているという点で、極めて攻めた作品であり、逆に言えば今までの読み手にはあまり受け入れられることがないのではないかと考えている代物である。それでも、平成という時代に捧げるひとつのレクイエムにはなりえたのではないかと思うし、持てる力をすべて注ぎ込んだという自負はある。

 ということで、この2編(正確には3編であるが)を合わせた両A面純文学中編小説集「平成バッドエンド」を鋭意製作中である。新元号最初の文学フリマである文学フリマ東京の新刊として用意しているので、ご期待いただければと思う。

 また、これに懲りず、五大文芸誌の新人賞を制覇していきたい構えである。

まんまるリーディングサービス(プレ)について

 どうもこんばんは、ひざのうらはやおです。

 おもちくんがお世話になっています。

 

 さて、今回は弊社(社ではない)ごうがふかいなホールディングスの新たなサービスを、お試しモードでやってみたいので、それにご協力してくださる方を募集するという記事です。

 

 かねてからツイッターでぼやいていたように、一次創作書き手による下読み問題から、できれば自分も下読みをして、原稿に困っている人に何かしらのヒントをあげたいと思いまして、そのサービスを試しにやってみようという試みです。

 本来はサービスごとに基本料金やオプションなどを設定して、それなりのコミッションとしたいのですが、支払い関係がまだまだ確立できていないことと、今回はあくまで自分にその力量があるかどうかのお試しというところで、すべて無料で引き受けさせていただきます。その要項や条件については下記のとおりです。

 

募集要項

 募集数:先着3名、ひとりにつき1作まで

(満了しました。応募ありがとうございました)

 原稿の分量:400字詰め原稿用紙300枚以内、かつ10万字以内

(※1作品の最大の分量です。これ以上は現状お引き受けするのが難しいです)

 応募条件

 ・ひざのうらはやおのツイッターアカウント(@hizanourahayao)と相互フォローであるアカウントの管理者であること

 ・このメモ帳にある「シーズンレース関係」の記事を読んでおり、2018ステージの評点方法について一定の理解があること

 ・いただいた原稿を上記基準によって評点化をすることを承諾してくれること

 ・いただいた原稿についてのフィードバック文面の一部をフィードバック例としてこのメモ帳に掲載することを承諾してくださること(当該記事を掲載する前にご連絡はいたします。また、原稿の文面そのものを引用して言及する部分などに関しては省略するなどの対処をとります)

 ・フィードバックまでの時間をある程度(2週間以上)とれること

 応募方法

 ・上記アカウントにリプライもしくはDMで

 原稿送付方法

 ・サービス決定後、相談させていただきます。

 オプション等

 ・決定後、該当者にお知らせしますので、ご希望等があればおもうしつけください。

 

 という感じで、正直めちゃくちゃ作業に追われてる今日この頃なんですがやってみたいと思います。もし気になった方はお声がけください。

文体と個性のはなし

 アマチュアの文筆家をぼくは「書き手」と一貫して呼んでいる。特に理由はないのだが、なんとなくニコニコ動画の「歌い手」「踊り手」みたいなニュアンスで、ワナビーも純粋なアマチュアセミプロも何もかもを一緒くたに呼べるような気がするから便利で使っているのだろうと思う。もっと便利な呼称があればそれを使うだろうなとも思う。

 

 とまあそんなことはどうでもよくて、最近流行ったツイッターのタグを見てふと考えたのだが、書き手の皆さんは結構自分の作品の強みを的確に分析できていて、それをセールスできる人が多い。それ自体にもびっくりなのだが、自己分析という終わりのない迷路をある程度で切り上げて、あまつさえそれを他人にもしっかりわかるように開示できているというのは、ぼくから見るとすさまじいスキルのように見える。ぼくはどちらも苦手である。いったん考え始めるといくら読み返しても足りないような気がするし、その実、これがわかったところでなんになるのか、と思ってしまう。

 でまあ、そんなわけでぼくも自分のセールスポイントを考えてみたのだが、ずばり、「文体」ではないかと思うのだ。これまでぼくは様々なジャンルを書いてきた。SF、ライトノベル、ファンタジー、純文学、現代小説、幻想小説、果てはエッセイまで、官能小説とホラー、ミステリ以外はだいたいおさえられているような気がする。もっとも取りこぼしがあるかもしれない。そして、そのすべての文章に対して、通底する概念が存在しているのではないかと考えた。そう、考えた、つまり仮説である。

 この考えに至ったのにはわけがある。かつて、文芸サークルに所属していた時に同期に、「きみは何を書いても『ひざのうらはやお』だな」と言われたのを思い出した。確かに、読んでみると、自分の文章ながら、それぞれ違ったテイストを確かに持っているにもかかわらず、どこか、ぼくが書いたものだということがわかるような雰囲気になっているのだ。これほど多様に書いているにもかかわらず、それらに通底するひとつの作風というものがあるならば、それはもう「文体」と呼んで差し支えないのではないか、とこう考えたわけである。

 しかし、このようなセールスポイントは、諸刃の剣になりうる、というより、現時点でなっている。ぼくはそもそも即売会の場でオーディエンスに訴求する行動を何ひとつ行っていない。そして、「文体」というものは実際に読んでみなければなにひとつ伝わらないし、さらに言えば読んでも伝わらない場合がある。だからこそ読み手を勝手にゾーニングしているともいえるし、ぼくは良質な読み手に恵まれていると感じるのはそこに端を発しているのだろうが、これでは新規の読み手を獲得するのがとても難しい。実際、ぼくが即売会に出ていく中で、その場が完全に(オンラインオフライン問わず)初対面であるという事象はほとんどなかった。インターネット上の交流がもとにあって、その先にオフラインの対面があるという方針にしているのは他ならぬ自分であるが、即売会の場が新規開拓の場にならないということに気づいて少しまずいな、とも思っている。もちろん、頒布数を保ったり、そもそも読まれることと良質な小説を生み出すことは、不可分ではないにせよ強い相関はないわけだから、そう神経質になることもないし、みかけの読み手の多さにかまけることはすなわち、書き手としての自分を欺瞞することにもつながりかねないわけで、つまるところ何も危惧すべきでもないわけであるが、しかしながら、ぼくの文章がすこしでも既存の空間から外に流れ出ていかなければ、その価値はたかが知れているということになってしまう。西野カナが「会いたくて会いたくて震える」とうたわなければ、彼女がファンの外であるぼくたちに名前を知られることはなかったのとたぶん同じことだ。

 何が書きたいのかよくわかんなくなってきた。えてしてぼくの文章はこういう状態に陥る。たぶん理路整然としたものが好みの方は受け入れられないのではないかと思うし、受け入れられなくても仕方がないかなとも思う。容量的にバッファがないとぼくの文章を読むのは厳しい。

 だがしかし、書けないのならばせめてまともに読みたいとも思うわけである。このブログで普段やっているシーズンレースは、そうやって真面目に読もうとした結果生まれたもので、真面目に読むということを突き詰めてはいるものの、それ以上のことをやっているわけではない。例えば批評したり、分析したりというのは、ぼくにはできないのだ。体系化した学問を脳内に収めることが出来なかった人間はこういう場面で弱い。おそらくぼくの脳構造的にそういったものを収めるのが苦手のようで、それは最近理解したところだ。だから、というわけではないだろうが、ぼくは文系に進んだし、それでいて歴史科目が全くできなかった。横にはつなげていけるが、縦につなげることがどうしてもできなかったのだ。もちろん、これは今になってわかったことである。

 おそらくであるが、ここまで書かれた文章を読んで、いらだちを憶えないひとは僕の小説を読むのに向いていると思う。今月は24日に文学フリマ広島が広島県立産業会館で、来月は21日にText-Revolutionsが浅草の都立産業貿易センター台東館で開催される。どちらも文芸系同人誌即売会イベントの中ではそこそこの規模を誇るので、ぜひのぞいてみるといいと思う。

最後に残るのが何であったとしても誰かがそれを見届ける必要がある

 どうもおもちくんです。

 文フリ金沢シーズンの記事を書くのにだいぶ日数がかかってしまった。今回が最後の記事である。

 

 坂本真綾といえば、何を想いうかべるだろうか。ガンダムSEEDのルナマリア、FF7のエアリス、空の境界両儀式、などなど声優としての姿か、歌手としての姿か、はたまたラジオパーソナリティとしての姿か、舞台俳優として、もしくは鈴村健一の奥さんというイメージの人もいるかもしれない。つまりそれだけ彼女は多彩に仕事をしていて、なんとなくぼくの中で、その多彩さと芯にある表現力というのが一体となっているなと感じるのが、第3シングルの「奇跡の海」である。ロードス島戦記シリーズ作品のアニメOP曲となった、どこか異国情緒の強い曲で、アマチュア合唱団に合唱曲化されたり、歌ってみたで検索すればかなりの数の動画が出てきたりと非常に人気で、とかく表現者にとってひきつけるものがあるのだろう、その動画の質も軒並み高いように思う。まあ、単に節回しが歌いやすいというのもあるかもしれないが。

 

「パンドラの子守唄」著:赫玉辛子(赫玉書房)

文体:32 空間:31 (半客観分野:63)

感覚:30 GF:30 (主観分野:60)

闇度:0.42 レート:なし

総合:123.42 (文フリ金沢4シーズン1位

 

 ということで、文フリ金沢シーズンを制したのは、赫玉辛子(あかだま・からし)氏の短編集であった。この方、別名義でプロとして活躍されている方で、そういったところも含めて安定だなと思って読んでみたのだが、表題作含め非常にダークな世界観と十分な熱量を帯びたままの社会に対する憎悪がストレートに表現されていて、この表現力と主張の力強さを正直に欲しいと思った。それでいて、どこか異世界のような雰囲気を帯びているのも不思議だ。特に、巻頭作の「ブラック・ゴシック・リバイバル」はどことなくスティーブン・キングのような趣で、引き込まれた。この引き込みがなければこの独特の、胸がすくようでどこかもやもやとしたものが残るような不思議な読後感を出すことは出来ないように思う。すべての作品が短編集を作り上げるために重要な役割を果たしており、その点で非常に完成度が高いなと思った。

 

 文フリ金沢全体で思ったのが、やはり文体そのものの味を引き出しているような作品が多くて、もちろんぼくがそういったものを好んで買っているということは否めないのだが、そこがほかのシーズンと大きく異なっているところだと思った。そして、その最たるものが今回1位となったこの作品である。様々なジャンルを忍ばせながら、そこに入る強烈な憎悪と批評性からくる描写、普遍性の高い物語にのせられる、クセの少ない文体。これらがしっかりと組み合わさって、ひとつの作品群、短編集として現れることの妙である。この作品に限らず、同人誌としての完成度が高い作品が多かったのが総じての印象だ。

 その割に評点がひかえめなのは、ぼく自身がやはりジャンクな味を好んでいるということを暗に示しているのかもしれない。逆説的、というか自己批評的でもあるが、シーズンレースでの評点は、同人誌としての完成度とイコールではない。完成度が低い作品が、高い作品のそれを凌駕していくなんてことはこの2年やってきても枚挙にいとまがないほどであるし、それは読者のみなさんも感じていることだろうと思う。だからぼくはこういった場ではその完成度についても正直に言及していきたい。

 

 ということで、文フリ金沢4シーズンについてはこれで終了である。次回はようやく、静マルシーズンへ突入だ。昨年のMVWに輝いた佐々木海月氏が満を持して登場したり、総合点1位を堅持する丹羽夏子氏の作品が入っていたりと、今から読むのが楽しみである。

どこにもない世界線を探して積み上げるだけの職業

 どうもおもちくんです。

 予想外に作業時間をとられていて、ろくにシーズンレースを進められなかった。が、ようやく書く気分になったので、つづきを書いていこうと思う。

 

 今や平成を代表する大人気バンドの一角となってしまったBUMP OF CHICKENの曲に「かさぶたぶたぶ」という曲がある。少年(?)のひざこぞうにできたかさぶたの視点から語られるユーモラスな描写と、だからこそのノスタルジックな雰囲気が小気味のよいサウンドに重ねられていく妙がきいていて、どうにも忘れられない曲である。

 

「いきとしいけるもの」著:今田ずんばあらず(ドジョウ街道宿場町)

文体:29 空間:31 (半客観分野:60)

感覚:30 GF:37 (主観分野:67)

闇度:0.444 レート:5.703(B)

総合:121.741(文フリ金沢4シーズン2位

 

 ということで、このメモ帳でもちょくちょく出てくるずんばニキこと今田ずんばあらず氏の作品が、特集記事ではなく純粋なシーズンレース上位として初めて記事化された。

 この作品集は、「モノ」が主人公となっている小説を集めたものである。それは宇宙ゴミだったり、石ころだったり、お道具箱のはさみだったりするわけであるが、どれもこれも、「モノ」に感情移入するような人間の視点ではなく、「モノ」そのものから語られているというのがキモであり、一貫しているポイントでもある。氏の作品集をはじめとした同人誌は、すべてが強固に一貫したコンセプトを貫いているところが非常に信頼できる。本当に「本」というものを深く考え、読まれるひとのことを第一に考えていると思う。彼の別の著作を読んでいても、そのエッセンスを強く感じる。

 また、この作品集は「過去からの脱却」ではわずかにのみ感じられた、氏の反骨精神というものを強く感じることが出来る。「イリエ」でも「過去からの脱却」でも見せることのなかった、ハードコアな存在感と自己主張が、この作品集では溢れんばかりに飛び出している。そういう意味でごうがふかいなであり、GF点は今シーズン2位の37点を記録している。

 ぼくは、同年代ということもあるが、テキレボ5で隣のブースの人間として出会ったときから、彼のことを同人活動上のライバルと考えて活動している。流麗に、器用に文体を変えながら、それでいて高いメッセージ性を保つ小説。頑ななまでに読み手のことを追求した装丁。イベント遠征の道すがらでは行商の旅と称して、フォロワーの方に自作を手売りしていくほどの営業力。全国各地の大小さまざまなイベントに出かけて、その告知を欠かさないまめさ。こんな同人屋の鑑みたいな人間をライバルとするのはいかがなものか、という意見はあるかもしれないが、これほどまでに全力である彼をライバルとすることで、ぼくは逆説的にこの世界にとどまり続け、踏ん張ることができるのではと考えた。そしてそれは今のところ成功している。彼がやれていることを、ぼくがやれないはずはない。やらないのならば何かしらの理由があって、そこがスタイルの差なのか経済力の差なのかそれ以外の要因によるものなのかを突き詰めていくことで、ぼく自身の問題に素早くフォーカスできる。そういった極めて合理的かつ利己的な理由で、ぼくはこれからも彼をライバルとして活動を続けるだろう。たとえその知名度や名声に天と地ほどの差ができたとしても、簡単にはライバルをやめないと思う。

 もっともそれはぼくにとって、というだけであって、彼にとってどうなのかは知らない。知りたいともさほど思わない。それは彼の勝手だし、彼をライバルとするのもぼくの勝手だからだ。

 

 なんだか半分くらいずんば論みたいになってしまったが、そんな感じである。

 次回は、このシーズン1位を記録した、プロの小説家としても活躍している方の短編集である。