日本ごうがふかいな協会広報

日本ごうがふかいな協会の広報ブログです。

フィードバック入力されたおすしロボットのにぎるおすしはうまいか

 どうもおもちくんです。

 

 久々に何も狙っていない雑記を書こうかと思う。本当に気まぐれ。

 フリーテーマなので話が首都高よろしく複雑にぐるぐる回るがそれは仕様である。ご了承されたし。

 

 ぼくがかーびぃ氏と名乗っていたころから、このメモ帳は連綿と、本当にしょうもないことばかり書かれていた。それを変えたのがシーズンレースだった。シーズンレースは2年前、2016年の秋の文フリから開始された。当時の新刊が「順列からの解放」であり、それより前の既刊はそこからさらに2年以上前のものということになるので、ひざのうらはやおとしての近年の実績としては、「順列からの解放」以降ということになると思う。創作同人関係については、別の記事で詳しく書きたいと思っている。そんな時間があるかどうかはわからないが。

 だから、そういった、同人誌に対する評だったりとか、創作に対する評だったりとか、そういうまとまった、書き味を調節したようなものを読んで楽しむ方は、ここで引き返したほうがいいかもしれない。

 たぶん、面白いはなしはなにひとつない。

 

 

 受験シーズンが近づいている。センター試験まであと1か月程度だろうか。

 ぼくは中学受験と大学受験しか経験しなかったから、高校受験の苛烈さもよくわからないし、なんなら大学受験もまともに勉強しなかったから全然レベルがわからないので、受験についてどうたらこうたら言えるような身分ではないわけだが、大学に行く、学歴を高めることの意味を、かつてのぼくはこんなふうに説明していた。

houhounoteiyudetaro.hatenablog.com

 たぶんこのメモ帳をつぶさに読んでいる方なら薄々感づいてはいるだろうが、ぼくは学力で困ったことがほとんどない。中学受験は親の助力がフルで効いていたので難なく「偏差値3の学校」に入ることが出来たし、その「偏差値3の学校」の中では平均的で目立たない成績ではあったものの、1年それなりの勉強さえすれば横浜国立大学の前期試験くらいは瞬殺できてしまう。それでも東京大学の試験には箸にも棒にもかからないから東大はすごいのである。東大生をなめてはいけない。少なくとも、入学試験の時点で、最高学府たるこの大学を卒業しうるほどの知的レベルと作業能力を具備しているのだから。これは恐るべき才能である。たぶん「書くことが大好きでたまらない小説家」くらい非凡ではないかと思う。

 まあ、つまるところ勉強しておくに越したことはないのだが、世の中勉強に向いていない人間というのがごまんといるどころではない。こちらが多数派だとぼくは信じて疑わない。むしろぼくのような勉強で苦労したことがほとんどない人間なんてかなりの少数派だろう。だから別に勉強が出来なくたってそこまで悲観することはないのだ。みたいなことを受験生に言いたいわけであるが、ここまで読んでくれた皆さんにはわかるようにぼくが何をどう書こうが受験生へのエールにはならない。そういうホシのもとに生まれてしまったのだからしょうがない。

 何を書きたかったのかてんで思い出せなくなってきた。特に何も書きたくなかったような気もする。

 このメモ帳をちびりちびりとさかのぼって読んでいると、シーズンレースをやる前はこんな感じの毒にも薬にもならない、真の意味で概念のマイルストーンになるようなものしか書いていなかったことに気づく。同じようにさかのぼったみなさんは、ぼくが浦安という千葉県の西部にある小さなまちの出身で、(おそらくは)そこそこ有名な中高一貫校で青春を過ごし、横浜国立大学で文芸サークルと混声合唱団に入り、そこで黒髪ロング一重まぶた微乳お嬢様系女子に呪いをかけられ、エントリーシートを100枚以上書きながら苦労して内定をもらった会社からはドブのように扱われ、ADHDであることに気づくという、ひとりの人間の四半生のようなものが浮かび上がってくることだろうと思う。ぼくは基本的に大ウソつきだが、このダイジェストについては7割がた本当である。もちろんこの文が本当のことを述べている可能性もまた7割くらいだ。シュレディンガーの嘘、みたいな話は世の中に腐るほど置いてあるし、それが本当であっても嘘であってもさほどあなたの人生に影響はない。ただ、シーズンレースをやる前のぼくと、やってからのぼくとでは、明らかに記事の書き方が異なっているなと感じた次第だ。つまるところ、シーズンレースばかり読んでいるひとたちはこのようなメモ帳の文章などついぞ読んだことがないひとたちなわけで、どう思うのか謎であるとともに、別にどう思おうがどうってことはないだろうなとも思っている。

 今更、学生時代にもっと勉強しておけばよかったな、特に浪人して東大にアタックしてみてもよかったかもしれないな、という思いがよぎる。よぎってしまったくらいには学生時代が遠くなってしまったことの確固たる証拠なわけで、今まで自分がフルに使ってきた若さというジャックナイフがなまくらになって使えなくなってきていることをひしひしと感じている。研ぐべきかどうかはまだわからない。そこまでは年を重ねていないのかもしれない。人生のターニングポイントのその場でできることなんていうのはものすごく限られていて、実はそこまでの積み重ねで選べる選択肢が変わってくるから、そのポイントだけに執着しても仕方がないのだが、それでも人間というものは、あの時ああしていれば、という思いだけが蓄積されていくのだ。だから人生という概念が生まれ、芸術という概念が存在し、それはときとして文学を生むのだろうと思う。そこで生み出されてこなかったもの、けれど自分の中に積もったもの、そういったものをつなぎ合わせて、ひとつの糸のように、ことばとして紡ぎ出していくのが、ぼくにとっての創作であって、だからこれは過去を顧みたり、自分の内面と正対することになって非常につらい。本当にやりたくない。やりたくないと言っても誰も信じてくれない。そういうところが本当につらいのだ。

 小説を書くということは自傷行為なのかもしれないとぼくは恋人に言ったことがある。彼女は笑った。「気づいてなかったの?」

 小説を書くことが楽しくて仕方がないひとをぼくは嫉妬してしまう。醜い感情だと思う。だからそれを表明することはあまりない。小説を書くことが癒しになると胸を張って言える、これは本当にすごいことだ。だからかれらにはぜひ、書き続けてほしいと思っている。これは本当のことだ。

 だけれど、小説を書くことが楽しくない人間にも、そういった場が開かれ続けていることを、このインディーズの場でぼくは願い続けたいし、そういうひとこそ輝くような場を、ぼくは人生をかけて作っていけたらいいな、と最近思うようになった。

 こればかりは若さを失って得たものではないかと思う。

夢から目覚めないような世界があったっていい

 どうもおもちくんです。

 文フリ東京26シーズンも、この記事を残して最後になった。書くにあたって、いろいろと考えてしまい、それなりに時間がかかってしまった。

 

 ぼくは9mm Parabellum Bulletが好きだ。それも、多分比較的最近好きになったから、昔からのファンにはついていけてないところもあるし、ライブに行ったことがあるわけでもないし、彼らのパーソナリティが好きなわけではないから、そのファンの性格的にどうしても公言するのをためらってしまうのだが、しかし彼らの生み出すサウンドは好きである。「クサさ」と「エモさ」の直線上をひたすらにまっすぐ突き進む彼らの、ダンディズムにはあこがれる。

 中でも、今回取り上げるのは「眠り姫」という曲である。9ミリを9ミリたらしめるサウンドとリリックがこれでもかというくらいにちりばめられているのに、カロリー過多で胸やけを起こさない作りになっている。サビの「君と罰を分かちあわせて」というフレーズがすごくハマった。それでいて「長い夢から目覚めないで」なんていうわけである。耽美的でありながら感傷的で、それでいてクール。それが9ミリだとぼくは勝手に思っている。

 

「ゼロ線上のバラッド」著:咲祈(モラトリアムシェルタ)

文体:34 空間:34 (半客観分野:68)

感覚:38 GF:36 (主観分野:74)

闇度:0.648 レート:7.069(E)

総合:135.579(文フリ東京26シーズン1位

 

 ということで、素点(レートでの減点を抜いた点数)で142点という全シーズン1位の記録を塗り替え、今回も咲祈氏の作品がシーズン1位となった。ちなみに、これまで素点で全シーズン1位を保持していたのは同氏の「ヘヴンリーブル―」(文フリ京都2シーズン3位)で、つまるところ自身の記録を塗り替えたことになる。氏はこの作品から、しばらく作品の製本を休止する旨を発表しており、現状、氏の作品の中で製本されているもののうち、最も新しい作品がこの「ゼロ線上のバラッド」である。

 しかしながら、この作品は、「ヘヴンリーブルー」以上の衝撃をぼくに残すことになった。「ヘヴンリーブルー」がオルタナティヴな咲祈イズムだとするならば、この作品に漂う雰囲気や観念は、「シン・咲祈イズム」とでも表現すべきだろうか。咲祈イズムを超えているが、しかしド直球でその延長線上にあることは間違いない苛烈さ。ぼくは今まで、氏の織りなす世界観がその文体によって圧倒的な完成度を誇ることを何度も述べてきたが、文体以外にも独特の展開リズムによって氏の作品は構築されてきていた。これは多分述べていなかったと思う。一種の弱点に受け取られかねないからだ。

 だが、この作品ではそのある種の「お約束」を打ち砕き、なお、咲祈イズムを保持しているどころか、むしろより苛烈に表現されているというところが、他の作品と一線を画しているとぼくは思う。かなり早い段階で物語はクライマックスを迎えるのだが、それが本当は全然クライマックスではなく、さらに高い次元のカタルシスを生み出し、最後の最後でどんでん返しが起きる、という複雑かつ強烈な展開は、氏のような強い文体を持つ書き手だからこそすさまじい威力を発揮する。作品そのものが持つ破壊力が、氏のこれまでの作品を大幅に上回ると言っていい。よくたとえている刀でいうならば、ひと薙ぎですべてのものを両断してしまう大太刀である。そのパワーを、みなさんも感じてほしいと書きたいところではあるが、肝心の氏がすでに頒布を終了してしまっているので、これ以上読者が増えないことが本当に残念である。

 もっとも、もしかすると、ウェブで掲載される可能性もあるかもしれないが。

 

 ちなみに、ぼくは、咲祈作品でもっとも好きなのは、「空人ノ國」だ。カクヨムで全文が掲載されているとのことなので、もし気になるようであればぜひ読んでみてほしい。

kakuyomu.jp

 氏は、ぼくがこのような形でシーズンレースという評点形式の同人誌紹介をすることになったきっかけをくださった方である。そんな方が一歩引いてしまうのは本当に寂しいし悲しい。もしいつか、また出会えることがあればいいなと、それだけ述べて、今回は結びとしたい。

 

 さて、次は文フリ金沢シーズンである。シーズンレースおなじみの面々もいる中、どのような展開になるのか楽しみだ。

夜空を翔る流れ星を今見つけられても何かを祈ることはたぶんない

 どうもおもちくんです。

 ちょっと日があいてしまった。いろいろ整えるのに時間がかかってしまったので、気を取り直して書いていきたいと思う。

 

 アジカン、ことASIAN KUNG-FU GENERATIONに「ソラニン」という曲がある。このバンドの曲は、ぼくの同世代の中でかなり流行っていた記憶があって、その流行っていた当時の空気を憶えていながら当時聞くことはなかったのだが、こうして日が経ってから新たに聞いてみると、当時の空気が思い起こされる。それは何と紐づいているのだろうか。やはり、その楽曲にも空気があって、それが当時の雰囲気とマッチしていたとか、そういうことなのだろうか、とふと考えてしまう。

 

N.G.T ナンバーガールトリビュート」著:そにっくなーす ほか3名(羊目舎)

文体:32 空間:32 (半客観分野:64)

感覚:35 GF:39 (主観分野:74)

闇度:0.702 レート:4.681(そにっくなーす・オカワダアキナ・遠藤ヒツジの3名のレートを合計し、総参加人数4で割ったもの)

総合:134.021(文フリ東京26シーズン2位

 

 一部に圧倒的な人気を誇り、今なお様々なひとたちの心の中に鮮烈な印象を残しているバンド、ナンバーガールの楽曲についてのトリビュートアンソロジー。4人という小ぢんまりとした編成ながら、その4篇の小説はどれも高ゲインで疾風のようなスピードがあってエモーショナルが過ぎる。多分、これは仮説だが、この高ゲインの謎はおそらく、かれらがナンバーガールを、精神のノートが一番白い時期に入れたからだろうと思う。その思い入れが、情熱がありありと感じ取られながら、それでいて技術的にも高度な小説が並ぶ。その火力はなかなかのものである。全シーズンを通して3位、合同誌ではぶっちぎりのトップの素点を記録したのもうなずける。ここまで読んだ中でも瞬間最高風速を記録するようなエネルギーがあったし、どれもこれもがそれでいて磨き抜かれていたのも印象的だった。これがアンソロジーであることを忘れそうになるくらいだ。

 その鋭すぎる風を受けたいひとに。

 

 ということで、文フリ東京26シーズンの2位作品は、全シーズン2位にもなったほどの高評点を記録した作品であった。

 ということは、逆説的に、今回の1位は、全シーズン1位の素点を獲得しているということになる。

 次回、絶対王者のさらなる飛翔が秘められた作品を紹介します。

 こうご期待。

誰かの影響で変わるような自我ははたして自我といえるか

 どうもおもちくんです。

 毎日記事を書いていくのは定型的な作業を得意としないぼくにはかなり骨の折れる作業である。まあ、できなくはない。それはそういう特殊な訓練を積んだからであって、多くのADHDのみなさんやそのボーダーになっているひとたちにとってはとても難しいことなのだろうと思う。そういう意味ではぼくはこの特殊な訓練を積んだことには意味があるように思う。

 閑話休題。いきなり。

 

 筋肉少女帯の曲に「君よ!俺で変われ!」という曲がある。様々なサブカル的作品のもとになったりもとにされたり、そんな噂が立ったり立たなかったり、つまりはサブカル的な王道を行くような歌詞とサウンドだなあと思っている。もっとも、筋肉少女帯自体が日本サブカル界の重鎮になっていることは言うまでもないように思う。

 この作品は、読み切ったときにすでにこの曲をマクラにしようと思っていた。理由はここでは割愛するが、歌詞を読んでもらえればだいたいわかるのではないかと思う。感覚的なところなので説明しづらい。

 

「田中建築士の家」著:にゃんしー(デスポリンキー食堂)

文体:31 空間:30 (半客観分野:61)

感覚:30 GF:40 (主観分野:70)

闇度:0.56 レート:6.280(A)

総合:125.280(文フリ東京26シーズン3位

 

 ということで、実は長いこと高評点を得ていたものの、ここまで記事化作品がなかった、尼崎文学だらけの主催であり、路上パフォーマーでもある文学愛好家のにゃんしー氏の作品がここで記事化されることとなった。個人的にはごうがふかいな賞もこの作品にしたいところだったが、とんでもない伏兵(前回の記事参照)が現れたため今シーズン2位のGF点になってしまっている。

 氏はこの作品について、このような記事を書いている。

note.mu

 この作品は、氏の強みであるストーリーテリング力と、もうひとつの強みである独特の文体が絶妙なバランスをとりながら最後まで進んでいるという点で、にゃんしー作品の中でも非常に完成度の高い小説であると思う。氏自身は純文学ではなくエンタメとして書いた、という風にこの記事で述べており、確かにフォーマットとしてはエンタメ小説ともいえるのだが、ぼくはどちらかというとこの作品がにゃんしー的純文学のような気がしてならない。もっとも、その辺の線引きというのははっきりしているようにみせかけて、言葉で区切られているがゆえに曖昧なところがあるし、ぼくは主観しか語らないのでその辺はほっぽりだしてしまうのだが、あえて言えば、これは純文学を普段読むようなひとにこそ読んで欲しいと思う。独特の描写、ひとくせもふたくせもある登場人物、舞台となる汐音という集落の特殊性。これらが徐々に混迷を極めながら、最後の最後で圧倒的なコーダにつながっていく。そのポリフォニカルな作風は、これらの構成要素をひとつの小説に落とし込める、にゃんしー氏の高密度で複雑な文体でないと作りえないとぼくは思う。そういう意味で、氏の作品のひとつの到達点であるといえる。

 

 というわけでみんなもっと読んで欲しいぞ。

 

 さて、次回は、90年代を疾走したあのバンドのトリビュートアンソロジーが2位にランクイン。こうご期待。

本郷スーパーナイトメアチョップ

 どうもおもちくんです。

 というわけで、文フリ東京26シーズンの選外まとめ、後半戦である。

 今回はなかなか両極端で、評点が高い層と低い層が多いというシーズンだった。当時なかなか濃い買い方をしたなあと思うから、まあそういうことなんだろうなと。

 

「ウィークエンド」著:伊奈

 純文学、というよりかは青春小説に近い、伊奈氏による短編小説。これ一本を個人誌として入れてくるというのはなかなかにチャレンジングだなあと思う。複雑に書き込まれた設定と、予想外の展開は読みごたえを生むものとして書かれたのだろうなあと、これをドトールコーヒーで苦いコーヒーを啜りながら考えた。

 

「長い昼日向の終わり」著:市井一佳(フロッケリプリカ)

 隣のサークルだっと思うが、掲げていた世界観が面白そうだったので買ってみた次第。ゼンマイで動く自動人形「ミムス」が普及する世界の話。スチームパンク的なインダストリアル感を漂わせながら、それでもファンタジックに展開していくこの世界観が不思議に面白い。この作品自体は短編なのだが、長編があれば読んでみたいなと思った。

 

「強力な零」著:黙劇一海 ほか

 ストロングゼロアンソロジー、とでも言えばいいのだろうか。すべての小説にはモチーフとしてあのストロングゼロが使われている。その使い方は限られているようで様々で、制約がないようである、あるようでないといった感じなので、もしかすると別の制約があるのかもしれないと思ったが、それは文章中からは見て取れなかった。文体から察するに、ぼくと同年代かもしくは少し若い世代が書いているように思う。学生か、学生から足を洗った身分か、そんなところ。しかし、ストロングゼロのような強い酩酊感を催すようなものはなく、むしろ、明晰な文章が多くてびっくりした。雑多だけれど雑味の少ない、クリアなアンソロジーだろう。

 

「恋歌/恋華」著:月ノ音姫瑠(メンタルティック→ワルツ★)

 東北のロリィタ詩人、月ノ音姫瑠氏のリバーシブル詩集。二つの詩集が互いに結合されて生み出された、簡素にしてなかなかない装丁のものである。

 ぼくはこの人のまっすぐなことばが好きだ。その装い、立ち姿、詩全体の雰囲気とは真っ向から対立するようで、すべての「あり方」の軸を通しているのは、氏が紡ぎ出す、あまりにもまっすぐすぎることばなのだと思う。それこそが、ひとつのごうがふかいなであると信じて疑わない。

 

「僕は人魚しか愛せない」著:善之新 (ごうがふかいな賞)

 本シーズンの最大の問題作であるように思う。この書き手、たしかぼくの2つとなりだったかで、非常に分厚いものばかり売っていたのと、これの残りが少なかったことから気になったのだが、なかなかに骨太な短編集だった。異常性愛/性的倒錯をテーマとした短編集である。表題作が最もパワーがあり、かつ分量もあるのだが、それ以外にも彼らが息づいているまちの、どこかホラー小説の舞台のような閉塞感がとても気になった。そういった人間が図らずも集まってきてしまうような、不思議なまち、といった雰囲気がすごいのである。これ以外にも高いごうがふかいなを誇る作品はあったのだが、圧倒的なごうがふかいなを誇ったためこちらがごうがふかいな賞となった。

 

 というわけで、これで選外まとめはすべて書いたことになる。

 次は、不思議で、どこかやるせない雰囲気を持つあの作品の記事である。

 こうご期待。