かーびぃのメモ帳

球体の生物が日々感じたことをつぶやくよ!

確率論とオールオアナッシング

 どうもかーびぃです。なんかあたまいたいんだけど。

 

 少し前にツイッターで流れてきた民間療法的なものに、「暖かい」「睡眠」「食事」の3要素で体調はできていて、それがすべてなくなると体調が崩れる、という旨のツイートが流れていた。なんとなく言いたいことはわかるのだが、かーびぃの経験的にもこれはあまり実感しない。しいてなぞらえるならば、この3要素が満たされた状態で体調を崩す確率が5%程度で、要素がひとつ欠けるごとに30%ずつ確率が上昇するようなイメージだ。つまり何が言いたいかというと、いろいろ対策をしていたとしてもできないときはできないし倒れるときは倒れるし、逆に明らかにズタボロな状態でも案外うまくいってしまっていることだってあるわけだ。明日の降水確率が70%だったとしたら、たいていの人は傘を持っていくが、仮に傘を持って行かなくても案外なんとかなることだって結構あるではないか。それと同じことである。確率というのは客観的な事象が起こる可能性であるが、ぼくたちの記憶は客観的に何のバイアスもかけられないまましまっておくことはできない。防犯カメラの画像みたいにそんなことができればいいのだが、自分自身が生き抜くために都合のいいように情報を編集している。

 このように、客観的にそして平均的に統計処理をしたデータというのはだいたいあっているもののだいたいまちがっている。例えばぼくのランニングもアプリを使って速度とかタイムとか測り始めたんだけど、時速7キロのところもあれば11キロのところもあるし、それでも平均は10キロということになっている。見た目だと7キロのところのほうが多いように見えるのだが、そのところはよくわからない。

 そして平均の一番役に立たない事象が、二項対立のものである。例えば好きな異性に交際を申し込む場合。これは結論だけを抜き出せば断られるか断られなかったかのいずれかであり、その差は1と0ほどもある。しかもこの場合異性がすべて同じ人間であれば話は別だが(驚くことに世の中にはそういう人もいるのだ)、たいていは違う人間であるため、統計データをとっても意味がない。対象が異なっているものを同じように扱うというのは極めて自己中心的な行為であり、たしかにある意味正しいのだが、確率を引き上げるという行為そのものが目的にそぐわないのは明らかである。

 

 どうでもいいけどかーびぃは一言でいうと「視野の欠損していない女性」に惹かれる傾向にあるというか、逆に言えばスタンスに偏りのある人間をかなり嫌うということが最近のかーびぃ学から明らかになっている。

 

 原稿だって0字/日のときと10000字/日のときがあるんすよ